福岡vs博多のはじまり

書評

前回のブログで、黒田家墓所の話が出たので、便乗して今回は黒田・福岡にまつわる話が掲載されている本をひとつご紹介。

明治時代、廃藩置県後に福岡県の新市名を「福岡市」にするか「博多市」にするか、で揉めに揉めたことは割に有名な話だと思うが、那珂川を境に商人の町・博多と、武士の町・福岡が分かれていたことを知らない人も意外と多いような気もする。

 

谷川彰英『戦国武将はなぜその「地名」をつけたのか』(2015年、朝日新書)

**---

福岡県「博多市」。福岡県外の方から、しばしば間違われることのある、定番の勘違いである。
言うまでもなく、福岡県の県庁所在地は「福岡市」であるが、地名の歴史としては断然、博多のほうが古い。博多の地名が初めて歴史に登場するのは、797年に編まれた「続日本紀」である。

対して「福岡」が登場するのは、1601年に福岡藩初代藩主・黒田長政がこの地にやってきてからだ。長政は福岡城を築城しようとした場所が、「福崎」だったこと、先祖の故郷が備前国邑久郡福岡村(現在の岡山県瀬戸内市長船町)だったことから、この地を「福岡」と改めたという。

しかし、長政に限らず、なぜ戦国武将たちはわざわざ地名を変えたのだろうか。「会津若松」を名付けた蒲生氏郷。今浜を「長浜」に変えた豊臣秀吉。隈本を「熊本」に変えた加藤清澄。戦国武将が名付けた地名は全国に多数存在するが、その先鞭をつけたのは、かの織田信長であった。

信長が「岐阜」と名を改称したのは、「天下平定の計画を樹(た)てんとして、先づ名を正して人心を一新せん」という理由からだった。かくて、戦国武将による地名の改称が行われるようになるのだが、改称には武将らの想いがつまっているのである。

「福岡」という地名を名付けた長政には、古来より「博多」の名で知られた土地に、新しい君主として君臨し、権力を誇示しようという対抗意識があったのではないか。著者はそう語る。それが、商人の町「博多」と、武士の町「福岡」の軋轢を生んだのかもしれないが。

---**

いまでも、福岡と博多では雰囲気や文化が違っていると思うが、当時はもっと顕著な違いだったのだろうかと思うと、タイムスリップして覗いてみたくなる。

タイトルとURLをコピーしました