まだまだ肌寒い日が続いていますが、季節はもう春。日差しも温かくなり、桜の開花が待ち遠しく感じられるようになって参りました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
さて、私はほそぼそと漢文の勉強を続けています(前回 ぶんぶん漢文参照)。
漢文というと馴染みがないですが、春といえば、この漢詩は多くの人に聞き覚えがあるのではないでしょうか。
春眠不覚暁 春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚えず
処処聞啼鳥 処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来風雨声 夜来(やらい) 風雨(ふうう)の声
花落知多少 花(はな)落(お)つること 知る 多少(たしょう)ぞ
孟浩然(もう こうぜん)という人の『春暁』という詩です。春はとかく眠いもの……としてよく最初の一行が引き合いに出されますね。(※書き下し文は『漢詩入門』 (一海 知義、岩波ジュニア新書)より引用)
でも、最後の「(昨夜の風雨のために)花がどれくらい散ってしまったことか」まで読むと、ただ眠いなぁというだけの詩ではなかったのだな、とびっくりしました。どこか哀愁も感じられる大人の詩だったのですね。
この詩は書き下し文だけでもおおよその意味がわかりますので、特に日本人にも親しまれているのかもしれません。
しかし、味わいが異なる翻訳をふたつ知りましたので、よろしければ読み比べをしてみてください。まずは井伏鱒二の訳(『厄除け詩集』より)。ちなみに、井伏鱒二は太宰治のお師匠さんです。
ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨マジリ
散ツタ木ノ花イカホドバカリ
次は土岐善麿の訳(『鶯の卵』より)。土岐善麿は石川啄木のお友達です。
春あけぼのの うすねむり
まくらにかよう 鳥の声
風まじりなる 夜べの雨
花ちりけんか 庭もせに
同じ詩の翻訳なのに、着眼点や表現がかなり異なり、味わいがちがって面白いですね!
漢文は簡潔を旨とする文章ですが、だからこそ、その味わい方にも個性や幅が出て楽しいなと思います。原文の微妙なニュアンスがわかるようになれば、きっともっと面白く感じることでしょう。
……と、ここまで訳知り顔で漢詩について書いてきましたので、「漢文読めるようになったんだね。よかったね~」と思われたかもしれません。
しかし実際は、ぜんぜん、まったく、漢文読めないままです。
美しい漢詩にうっとりしたい気持ちは山々なのですが、実際にしていることは受験勉強とあまり変わらず……。ひたすら問題を解く! 辞書を引く! 解説書を読む! の繰り返しです。
それでも最近はようやく「あっ、『孰』が出てきた。これは英単語の『which』と同じ意味だな」とか「ここの『見』は『見る』じゃなくて受け身の助動詞だな」とかが、少しずつわかってきました。
英語も単語を覚えないと文章が読めないように、とにもかくにも漢文も漢字の意味がわからないと文章自体が読めません。まだまだわからないことばかりですが、そういう意味では漢詩に触れて楽しむとともに、語彙を増やすのはよい方法かもしれないな、と思います。
まだまだ道のりは長いですね!