仙厓さんに聞いてみよう!

チュータローとたどる 福岡・博多「2000年の道」
「扶桑最初禅窟」、臨済宗・聖福寺の境内

チュータローとたどる福岡・博多「2000年の道」

Season1~大博通り界隈

Act4~仙厓さんに聞いてみよう!

前回、最後に登場した仙厓さん(仙厓義梵=せんがいぎぼん、1750~1837)は、栄西が創建した日本最古の禅寺、臨済宗・聖福寺(しょうふくじ=福岡市博多区御供所町)で第123・125世の住職を務めた名僧。美濃国(岐阜県武儀郡南武芸村)の貧農(山番)の三男に生まれて11歳のときに清泰寺で出家し、青年僧のころは諸国を行脚して修行しました。
天明8(1788)年、39歳のとき、第122世・盤谷和尚らに推挙されて聖福寺の住職になり、62歳で隠居して88歳で亡くなるまで博多で暮らしました。飄々として天真爛漫の人柄を物語る逸話や、数多く残された禅画・戯画や諧謔味あふれる画賛などで、今も「博多の仙厓さん」として親しまれ続けています。

「扶桑最初禅窟」、臨済宗・聖福寺の境内

反骨の人、抗議の落首

若き日の仙厓さんに、最初の大きなチャンスが巡ってきたのは32歳のとき。学問修行を積んで美濃に帰って来た仙厓さんを、清泰寺の住職にしてはどうかという話が持ち上がりました。ところが、清泰寺は飛騨代官の菩提寺で武家の檀家が多い格式高き禅寺。檀家総代から「二本差しの武士が貧農の子の住職に頭を下げられるものか」とクレームがついて、話は立ち消えになったとか。
このころ美濃では、藩政が乱れに乱れて家老が頻繁に更迭される騒ぎが続きました。領民が苦しんでいるさまを間近に見た仙厓さんは、「よかろうと思う家老が悪かろう、もとの家老がやはりよかろう」と書いた落首を人通りが多い町角に張り出して抗議の意思表示。これを見咎めた藩庁の役人が仙厓さんを追放処分にしたため、「傘(からかさ)を広げてみれば天(あめ)が下、たとえ降るともみの(美濃)はたのまじ」と、また痛烈な批判の落首を残して飄然と去って行ったということです。
政治が、民の暮らしや民衆の思いとはかけ離れたところで動いているのは、昔も今も同じということでしょうか。そういえば、「西洋花札」とかいう名前のメリケン国のプレジデントは、就任早々から自分の失政は棚に上げ、閣僚の首のすげ替えを乱発してきましたよねえ。そして、わが日本国の幕閣でも、失言と不祥事で閣老の辞任は日常茶飯事。中には差別的言動を繰り返す確信犯のような「老中」も居て、批判されても居座りを続けていますよね。仙厓さんが現代に生きていたら、この連中にどんな落首を書いて突きつけるのか、聞いてみたいもんですニャ。

江戸のトップスターも門前払い

仙厓研究の第一人者ともいえる三宅酒壺洞氏によれば、仙厓さんの生き方は「豊侈(し)を尚(とおと)ばず、尊卑を問わず、座位を論ぜず、公事を談ぜず、人の短を語らず」という、座右の自戒に貫かれているといいます。
富貴を求めず、身分を問わず、権威に屈せずという精神は、武家社会だけではなく、時には時代の寵児となった大スターにも向けられました。
天保5(1834)年10月、江戸の千両役者、七代目市川團十郎(改名して当時の名は海老蔵)が博多に下り、浜新地の仮小屋で興行を打ったことがありました。その後、長崎に行き、二カ月後にまた博多に戻ったそうです。そんな、博多滞在中のある日、團十郎はお供を連れ、巷で有名な仙厓さんを聖福寺境内の虚白院(仙厓さんの隠居所)に訪ねました。もとより傲岸不遜で名高い團十郎。丁度、大掃除をしていた仙厓さんを小僧さんと間違えて、「和尚はいるかい」といかにも横柄な態度。これにカチンと来たのか、仙厓さんは「和尚に聞いてきましょう」と奥へ引っ込んだまま梨の礫。しばらくして別の小僧さんが、仙厓さんの書付を持って来て團十郎に手渡しました。
「お江戸では一かわ(市川)二かわ知らねども、見ます(三升=市川團十郎一門・成田屋の家紋)ところは海老の目ン玉」
仙厓さんの書付は「江戸では一、二を争う役者か知らんが、ワシが見たところ海老のように目だけが大きい男だわい」という痛烈な皮肉。これを見た團十郎は、すごすごと帰って行ったそうな。
ただし仙厓さんの逸話は、どれも後世いろいろと脚色されていて、話のディテールには「諸説ございます」。

聖福寺の塔頭、幻住庵(左)前の通り。幻住庵内の虚白院は、仙厓さんが晩年を過ごしたところ。

禅画に託した「師家」の心

仙厓さんは、生涯を通して数え切れないほどの禅画や戯画を残し、「画僧」と呼ばれることもありました。しかし三宅氏によれば、仙厓さんは「画僧ではなく、師家である」とか。画僧とは鎌倉~室町期に禅寺で専門的に禅画を描いた絵師的な僧侶のことで、仙厓さんはあくまで禅の教えを広める説法の手段として禅画を用いた「師家」なのだそうです。
仙厓禅画のテーマは、月を見て子どもたちと戯れる布袋や中国の故事に由来するもの、民衆の暮らしや風景画までさまざま。その多くにユニークな画賛が添えられています。
例えば、牛が寝そべる「臥牛図」の賛は「世の中ハ うしと思へハ 憂けれ共 馬と思へハ くふてもみたし」と、人を食った?内容。柳が風に吹かれるさまを描いた「柳図」には「気に入らぬ風もあらふに 柳哉」と飄々として生きる心境が書かれています。他にも、まるで猫のようにひょうきんな表情の「虎図」やまったく怖くない龍の図、大きな○を描いて「これ食ふてお茶まいれ」と賛を付けた「円相図」などユニークなものばかり。左から□△○の図形だけを並べた、まさに「禅問答」のような絵(□△○図、出光美術館蔵)もあります。
そして何と言っても、仙厓さんらしい諧謔とウイットにあふれているのは「絶筆の碑」の逸話。仙厓さんは、若いころから頼まれれば誰にでも気安く絵を描いたため、武家から町人まで絵のおねだりに来る客は引きも切らず。しかし83歳になり、さすがに億劫になった仙厓さんは「うらめしや わが隠れ家は雪隠か 来る人ことに紙おいてゆく」という皮肉を込めた句を作って「お断り」宣言をしたのです。しかし、それでも絵の依頼は続いたため、石工に「絶筆の碑」を作らせ、次のような句を彫らせました。
「墨染の袖の湊に筆すてゝ 書(かき)にし愧(はじ)を さらすしら波」

仙厓さんの肖像(正木宗七作・仙厓和尚陶像をもとにしたスケッチ)

お茶目で愉快な「日干し猿」

仙厓さんは常日ごろ、自分のことを「四国猿の日干し」と呼んでいました。身の丈五尺足らずの小男で、いつも墨染の衣を着ていたので、よく小僧さんと間違われたそうです。そうすると、またいたずら心を発揮するのです。
あるとき、箱根の関所を通ろうとしたところ、役人が小柄な仙厓さんを見間違えて「これこれ、そこの者、尼僧ではないか。尼僧の通行はまかりならん」と咎めました。ムッとした仙厓さんは、役人の前に立ちはだかって衣の前をパッとはぐり、役人を大いに面食らわせたとか。
またあるとき、俳句の宗匠で田口四軒という人が御笠川で勾玉を拾いました。四軒さんの自慢話ですっかり勾玉の魅力に取り憑かれた仙厓さんは「是非譲っておくれ」とせがみましたが、つれない返事。その後、四軒さんが申年の正月用として絵師に猿の三番叟の絵を描いてもらい、仙厓さんに画賛を頼んできたので、また勾玉の話を持ち出してみたけれど相変わらずの冷たい返事。それならばと、仙厓さんが書いた画賛は「さる(猿)ほどに四軒が玉を惜むなら かわりにやろうわしの金玉」。
またある夏の日、福岡の剣客・戸田某が仙厓さんが起居する虚白院を訪ねて来ました。真っ裸でお昼寝の最中だった仙厓さんを見て、戸田某はムンズとキ○タマを鷲掴みにし、「和尚、これ何ぞ!」。しかし仙厓さんは少しも騒がず、目を閉じたまま「宝の持ち腐れじゃ」とうそぶいて、そのまま昼寝を続けたとか。
かように、仙厓さんと「玉」にまつわるお話はいろいろあり、下ネタ大好きの茶目っ気は画業の方でも存分に発揮されています。
有名な旧熊本藩主・細川家の永青文庫には「野雪隠図」という仙厓さんが描いた絵が所蔵されています。まあ、平たく言えば「野糞の図」ですニャ。草むらで、大きなお尻をこちらに向けて用をたしている人物の横に、添えられた画賛は「人ハこんそふな(人は来ないそうだ)」。そこに込められた、深遠なる禅の心とは、果たして如何?

 

チュータローの日記~ウ○コのお話


俳聖・松尾芭蕉の句に、こういうのがあります。
山路来て 何やらゆかし 菫(すみれ)草
天正4(1684)年、京都から大津へ至る山道で、芭蕉が詠んだとされる名句(野ざらし紀行所収)。これが仙厓さんの筆にかかると、同じ「山路」の句でもいささか趣が違ったものになります。
山路きて 何かしたいぞ あぽしたい
これは、西日本新聞社の元文化部長で郷土史家でもあった江頭光氏の著書「博多ことば」(葦書房)に、「あぽ」の代表的用例として載っている句。「あぽ」とは、博多弁でウンコのことなんです。
仙厓さんの物語から、ちょっと尾籠な話になってきたので、ついでに吾輩のウンコの話もしておきますね。うちにはネコの家族が三匹(みな捨てネコ)いるんですが、飼い主のアクビ先生によれば、僕のウンチは「鼻がもげるかと思うほどダントツに臭い」のだそうです。だから先生は、僕のトイレの掃除をする時、息を止めてやっています。先生いわく「この強烈な臭さは、匂いで縄張りを誇示するヤマネコのしわざだ!」とか。
そう言えば、僕が大好きなNHKテレビの「ダーウィンが来た!」っていう番組を見ていたら、ヒマラヤ地方の山に棲むユキヒョウという猫族が、岩にお尻を向け、ピンと立てたシッポを震わせながら後ろの片足を上げてチューッとオシッコしてました。これも縄張りを示す行動らしい。実は僕も、家の外では壁にお尻を向けて片足を上げ、シッポをピリピリッと振りながら同じスタイルでオシッコをするんです。
さてさて、ウンコもオシッコも済ませたし、のんびりお昼寝でもしようかな…。

新種?ツクシヤマネコ


【ガイド】市川團十郎来演の碑
 七代目市川團十郎が、幕府の「天保の改革」による風紀引き締めで江戸所払いになり、博多に下って芝居興行を打ったのは天保5(1834)年。場所は、中洲の北側(河口側)の端にある浜新地(現在の福岡市博多区中洲中島町)でした。ここは江戸末期、財政窮乏に弱り果てた黒田藩が、芝居小屋や茶屋などを建て、富くじを売ったりして新規増収策を図ったところ。いまの中洲歓楽街の起源ともいうべき場所です。七代目市川團十郎改め五代目海老蔵の公演は延べ36日間に及び、藩に二千両以上もの収入をもたらしたとか。のちに江戸に帰った團十郎は、博多興行の経験を「博多小女郎浪枕」の歌舞伎舞台に活かしたそうです。
この浜新地の跡に整備された中島公園の一角、大黒橋のたもとに「七代目市川團十郎博多来演之碑」があります。碑銘は十代目海老蔵(十二代目團十郎)の揮毫で、博多来演百四十周年を記念し、昭和48年に地元有志の博多幕間會の手で建立されました。福岡市営地下鉄・中洲川端駅下車、徒歩6分。
写真=浜新地の跡に立つ「七代目市川團十郎博多来演之碑」)
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