饂飩の道は「禅の道」

チュータローとたどる 福岡・博多「2000年の道」
饂飩の道は「禅の道」

目次

チュータローとたどる福岡・博多「2000年の道」

Season1~大博通り界隈

Act3~饂飩の道は「禅の道」

 

中高校生のころ、社会科の歴史教科書で「銅鐸(どうたく)文化圏」とか「銅剣・銅矛(どうほこ)文化圏」なんて言葉を教わったのを覚えていますか?

今から2000年以上前の弥生時代には、近畿地方を中心とする「銅鐸文化圏」と、九州・中国四国などに広がる「銅剣・銅矛文化圏」という二つの対抗する勢力圏があったという学説です。近畿地方の弥生時代の遺跡では祭祀に使われる銅鐸が集中して見つかり、九州などでは青銅器の銅剣や銅矛が集中して出てきたため、邪馬台国東遷説で有名な哲学者の和辻哲郎さんが昭和の初めごろに言い出したらしいです。その後、佐賀県の安永田遺跡(鳥栖市)や吉野ケ里遺跡(神埼市)などでも銅鐸が見つかってこの説も揺らぎ始め、今では教科書からも姿を消したとか。

ところでその文化圏ですが、「牛蒡天饂飩(ごぼうてん・うどん)文化圏」というのがあるのを知ってますか? 実は、吾輩の飼い主のアクビ先生が勝手に名付けた珍説。「牛蒡天饂飩」というのは、ゴボウをそぎ切りにしてかき揚げにしたものや、短冊に切って天ぷらにしたものなどをトッピングしたウドンです。博多では「ゴボ天ウドン」と呼んで、豚骨ラーメンとともに博多っ子が愛するソウルフード。ただし「ゴボ天」の姿形は店によってさまざまで、みんなお気に入りのゴボ天を求めて、うどん屋巡りをするのです。

地元愛がハンパない福岡・博多の人たちは、全国どこでもゴボ天ウドンがあると思いこんでいるフシがありますが、かつて地元の民放TV局が「実地踏査」したところ、その「文化圏」は広島の先ぐらいまでだったとか。何だか、「銅剣・銅矛文化圏」に重なっているような気がしませんか。

 ちなみに、生粋の博多のお年寄りがウドンを発音すると、片言になって「うろん」。博多・川端通り商店街入り口の角には「かろ(かど)のうろん」という名前の老舗もあります。

My favorite “GOBOTEN”

「麺ロード」を経て承天寺へ

さて、JR博多駅から大博通りを北側に進み、祇園町交差点付近から東側の旧辻堂町(つじのどうまち)へ入ると、通称・承天寺(じょうてんじ)通りがあります。平成26年、博多の歴史的文化財が多く残る寺社町エリアの「ウエルカムゲート」として建てられた「博多千年門(はかたせんねんのもん)」が出迎えてくれます。

承天寺は、前回「博多のチャイナタウン」のお話で登場した、鎌倉時代の中国人豪商・謝国明(しゃこくめい)ゆかりの寺。のちに聖一国師(しょういちこくし)と呼ばれる圓爾辯圓(えんにべんえん、1202~1280)が嘉禎元(1232)年に宋に入って禅を学び、仁治三(1242)年に博多で承天禅寺(臨済宗東福寺派)を開山した際、強力なスポンサーになったのが謝国明です。

その承天寺の表門を入ってすぐ左側に立つのが、「饂飩蕎麦(そば)発祥之地」の碑。聖一国師は、宋から製麺技術を持ち帰り、地元の人々に伝授したと言われます。総本山の京都・東福寺には水車製粉プラントの設計図とされるものも残っているとか。博多が飢饉に襲われたとき、謝国明が蕎麦掻きを作って住民にふるまい、年越しソバ(博多では“運ソバ”と言います)の元祖になったという逸話も、前回お話しました。

遠く大陸から、シルクロードならぬ「麺ロード」を通って博多にもたらされ、全国に広まったウドンや蕎麦。ただし、四国の麺どころ香川には「切り麺を最初にもたらしたのは弘法大師・空海であ~る」とする強力なライバル説もあり、この論争「諸説ございます」

承天寺の前の「承天寺通り」

饅頭や「博多織」の元祖も

 ところで、聖一国師は饅頭(まんじゅう)の始祖とも言われていて、承天寺境内には「御饅頭所」の碑があります。

さらに、博多の代表的な工芸品の一つ、博多織も承天寺ゆかりのもので、始祖とされる満田彌三右衛門(みつた・やざえもん)の顕彰碑が同じく境内に建立されています。武家の三男に生まれた彌三右衛門は商人になり、圓爾辯圓の随行者となって入宋。6年間の滞在中に広東織の秘伝などを学び、博多に帰って織物を家業としました。その後、改良を重ねて福岡藩の特産品となり、幕府への献上品に。中でも、仏具の独鈷(どっこ)と華皿を図案化した「献上博多帯」は、博多織の“代名詞”ともなりました。

承天寺の玄関に立つ(左から)「饂飩蕎麦発祥之地」の碑、「御饅頭所」の碑、「満田彌三右衛門」の顕彰碑

「山笠」も始めた聖一国師

博多の夏祭りといえば、恒例の博多祇園山笠(やまかさ)。毎年7月1日のお汐井取りと飾り山一般公開で幕を開け、流舁き(ながれがき=7月10日)、朝山・他流舁き(11日)、追山(おいやま)ならし(12日)、集団山見せ(13日)、フィナーレとなる15日未明の追山まで、15日間のハードな祭りが続きます。

山笠は、大博通りにほど近い博多総鎮守・櫛田神社の祭礼で、素盞嗚命(すさのおのみこと)に奉納される神事ですが、その発祥の地として語り継がれてきたのが承天寺。寛元元(1243)年、博多に疫病が蔓延し、聖一国師が施餓鬼棚に乗って博多津中を舁き回らせ、聖水を振り撒いて病魔退散を祈願したのが起源と言われます。現在の山笠の台や台の周囲を囲む杉垣は、承天寺の施餓鬼棚の様式を伝えているのだとか。今も、山笠本番では櫛田神社境内のほか東長寺と承天寺の前にも山笠がターンするための「清道(せいどう)旗」が立ち、祭りの重要ポイントになっています。

文献に残る山笠は、慶長6(1601)年の「九州軍記」に、「永享4(1432)年6月15日、博多津の櫛田祇園社の祭りがあり、山のように十二双の造り物を組み立て、上に人形のようなものを据えて担いで行った」という内容の記述が最古のもの。ただし、聖一国師が病魔退散の祈祷をした年には異説があり、山笠の起源や故事来歴等についても「諸説ございます」。

博多祇園山笠の「舁(か)き山」

「扶桑最初禅窟」の聖福寺

こうして見てくると、食べ物や織物、祭りや仕来たりなど、色んなものに禅宗や禅寺がかかわっていたことが分かります。大陸から波濤を越えて鎌倉時代の日本へ、禅の教えを学んで帰国した禅僧たちとともに、中国伝来の文物が伝わって来たわけです。その最初の「上陸地」となったのが博多であり、大博通り界隈に点在する禅寺から日本全国へと広がって行きました。

「承天寺通り」の北側、大博通りから一筋東側に入った御供所町(ごくしょまち)界隈にも妙楽寺(みょうらくじ)や聖福寺(しょうふくじ)など、禅宗の古刹があります。中でも聖福寺の山門には「扶桑最初禅窟」(日本で最初の禅寺の意)の額が掛かり、門前に立つ石碑にも同じ文言が刻まれて格式の高さを物語っています。

聖福寺は、臨済宗の開祖・栄西(ようさい=1141~1215)が二度目の入宋のあと帰国して開いた寺。宋商人由来の堂舎が建ち並んでいた「博多宋人百堂」の跡地を宋人が寄進し、源頼朝の庇護を受けて建久6(1195)年に建立されたと言います。ただ、この開山の年や敷地の由来なども、これまた「諸説ございます」。

いずれにせよ、当代のご住職で133代目という気の遠くなるような歴史の長さ。きら星のように輝く高僧、名僧あまたある中に、ひときわ異彩を放つのが第123・125代住職の仙厓義梵(せんがいぎぼん)和尚。その突飛で愉快な物語と天真爛漫な人柄については、次回のお話と致しましょう。

「扶桑最初禅窟」の石柱が立つ聖福寺の門前

チュータローの日記~ニャンコ寺と地域猫

聖福寺は、猫好きの間ではかなり知られた「ニャンコ寺」。境内に一歩足を踏み入れると、黒や三毛などが続々と寄って来ます。みんなホームレスみたいだけど、どうやって暮らしてるのかな? インターネットで「聖福寺   猫」を検索すると、全国の猫ファンが撮影した写真がたくさんアップされていますので、是非ご覧になってください。

ところで、吾輩をはじめアクビ先生の家で飼われている3匹の猫も、みんな元はホームレス。吾輩と白黒のナナコ姐さんは、生まれて間もないころ、近所の公園に捨てられていたのをアクビ先生の奥さんが拾ってくれました。もう一匹の色が薄いサバトラ系・ミヨ姐さんも野良育ちですが、ご近所に可愛がってくれる家があり、若い頃はアクビ先生の家との間も行き来する「半野良」生活でした。近所の人たちの世話で避妊手術をしてもらい、餌ももらって生活するいわゆる「地域猫」だったわけです。しかしある時、アクビ先生夫婦から「うちの子になるかい?」と聞かれて「ニャー」と快諾し、家付き猫になったという経歴の持ち主。ただ、野生の血が騒ぐのか、今もしょっちゅう外を出歩き、なかなか帰ってこないのが難点とか。

聖福寺境内は猫の“パラダイス”

ミヨさんお気に入りの「お休み処」はフラワーポット


【ガイド】承天寺と博多織 
承天寺(福岡市博多区博多駅前1丁目29-9)では、昭和25年から毎年11月上旬に博多織工業組合による恒例の「博多織求評会」(品評会)が開かれています。一般客も無料で参観できるため、普段は拝観できないお寺の内部を見学しながら、博多織の美を堪能できる絶好の機会です。また毎年10月には、大博通り界隈の寺社をライトアップする街歩きイベント(一部有料)も開かれています。
写真=ライトアップされた「博多千年門」)
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