おもひで、とつとつ

梓のつぶやき

今年1月末、八女市矢部村の詩人、椎窓猛先生がご逝去された。
詩人や作家として精力的に活動、数々の著作を残され、
弊社でも『ふるさとに生きる学苑歌集』『ペッギイちゃんの戦争と平和 青い目の人形』など
多数の著作を出版された。
創業50年を迎える梓書院の中で、
最も先生と過ごした時間の短い私が書けるものはどうしても少なく、
とても恐れ多くもあるのだけれど、最後に関われた者として少し思い出を振り返りたく思う。

* * *

小柄の可愛らしい、おじいさん。
大変失礼なことと思うが、それが私の椎窓先生への第一印象だった。

矢部村の四季や文学、出来事を発信する雑誌「村」の打ち合わせに向かった秋口のあの日。
椎窓先生のことを「可愛らしくもあるが、とても鋭い方だ」と散々聞かされていた私は、
矢部村までの長い道すがら、ずっとどこか緊張していたことを覚えている。
(本当は、まだ少し慣れない長距離の運転と、
先輩との長時間ドライブの方に緊張していたのかもしれないが)

「矢部村に初めて行ったとき、『千と千尋〇神隠し』みたいだって思った」
長いトンネルがあって、それを抜けたら矢部村なんだよ、という先輩の話でようやく
少し心をほぐしてたどり着いた矢部村は、本当に、ちょっとしたジブリのような場所だった。


(これらは別日に1人で矢部村に行った際に撮影したトンネル入り口からその先の写真。
矢部村に向かう日は不思議といつも晴れていたのに、写真を撮ったこの日だけ雨だった。
十中八九、梅雨のせい)

迫力のある岩肌、ダムを囲む緑。
標高が高いのもあるのだろうが、それでもなお高い山々に囲まれているために、
太陽がすでに隠れてしまって平地より少し肌寒い。
ひたすらうねる一本道の山側には、紅葉やイチョウがあざやかに。
一方、崖側には桜が並んでいて、春になるとそれは大層美しいらしい。

そんな景色の先に、椎窓先生はいた。
ジブリの中のおじさまたちのような、厳しくも、不思議と愛らしい雰囲気をまとって。

椎窓先生とのお付き合いは、恐らく1年半程度。
しっかりと関わりあえたのは「村」No.18とNo.19の制作・編集で。
本当にとても短く、10回お会いできたかどうか、程度のお付き合いではあったけれど、
お会いする先生はいつもパワフルで熱い方だった。

「あの絵本はとても良い声をたくさんもらった、いい本ですあれは」
「『村』を読んだ、とお手紙をこんな遠くからもらった」
「こういうのはちゃんと残していかないかんとですよ」
「あれも労作でしたね。本当に、いい記録になる」

何度も何度も繰り返し言われるこの言葉たちには、いつも気が引き締まる思いがした。

「本」という形にして、残すということ。
それは一つの固い、堅い、記録。

もちろん、電子データだってしっかりと残り続けるものである。
ネットにうっかり個人情報なんてものを流してしまえば、
永遠にその情報はネットの海を漂い続け、拾われれば個人を特定する情報となり得る。
(…なんてことをどこかで読んでから、SNSには断固として
個人が特定できそうな写真や情報は載せない、と心に決めた。)
今はだれでも「発信する」ことが簡単になったとよく言うが、
それはつまり「残す」ことも容易くなったということである。

しかし、その記録をどれだけ強固にするかは、
やはり目に見える、触ることができる、
質量のある「形」にすることが重要であるように、私は思う。

形を持たずにいるもの、例えば「思い」というものは、淡い光のようなもので。
人の中から出てこない限り、どこか輪郭がぼやけている。
それを人の外に出し、形を持たせていくと、「思い」はより鮮明に、輪郭を持つ。
しまいには、それが存在した足跡まで残すようになる。

心の内の思いを言葉として発することがそうであるように。
口から零れる言葉を文字に書き留めることがそうであるように。

書き留めたメモを整理して、より多くの人に伝わるようにまとめたものの一つが「本」なのである。

「残していかないかん」
先生がこの言葉を発するたびに、1つの本の重みを改めて実感するような気がして、
本を編む世界にいる者として、絶対に忘れてはいけないし、忘れたくないと強く思った。

私の先生との思い出は本当にこの程度。

先輩編集の人が経験してきたような、
打ち合わせ後に一緒に杣の里でそまりあんカレーを食べるだとか、

美味しい湧水を汲みに山へ登るだとか、そんな貴重な経験はできなかったけれど。
大事な考え方は、少しでももらうことができたのではないかと思う。

「村」2021年12月号を制作し、ほどなくして、
「また村の打ち合わせをしたい」とお電話をいただいて向かう予定だった1月中旬の日。
朝一で奥様から「矢部の方では雪が降っているから今日は危ない、違う日に」とご連絡いただき、
「最新号を作ったばかりだから、次号はもう少し先でもいいのでは」ということで、
それでは近日中に別用で矢部村へ行く際にお伺いしましょう、とお話して。
矢部村に向かおうとした前日、訃報を受けた。
たらればの話は考えても仕方のないものではあるが、考えられずにもいられぬものである。

奇しくも、ブログ投稿日の3月16日はちょうど四十九日にあたる。
来月には、先生が30年間運営に携わってきた
「世界子ども愛樹祭コンクール」の作品集ができあがってくる(現在編集佳境)折、

(昨年春制作の「世界子ども愛樹祭コンクール」作品集No.30。もうまもなくNo.31ができあがる)

大変恐縮ながらもとつとつと、とりとめもなく書かせていただいた。
拙く失礼も多い文章だったかもしれないが、何卒ご容赦いただければ幸い。

選考風景の写真の中に写る先生は、私には相変わらずただただ可愛らしく映る。

先生の92年の生涯の中、92分の1程度でも交われたことを宝に思う。
生前のご功績に敬意と感謝を表し、心よりご冥福をお祈りいたします。

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