目次
(3)ドラマでたどる事件の現場
大宰府政庁での再会
さて、ここからは『光る君へ』のドラマで刀伊の入寇を振り返りながら、事件ゆかりの地をたどってみることにしよう。
ドラマ第46回(2024年12月1日放送)の冒頭は、商人や官人らが行き交う大宰府(だざいふ)の雑踏の中で、都から旅して来たまひろ(紫式部)と松下洸平演じる周明(ヂョンミン)が20年ぶりの再会を果たすシーンから始まる。かつて越前でまひろと出会った周明は、日本人を母とし、宋人を父に持つ薬師(くすし=医師)見習い兼通詞(つうじ=通訳)である。
「亡き夫が勤めていた大宰府を見てみたい」と西下してきたまひろは、大宰府政庁で隆家や娘・賢子(かたこ)の想い人である武者(むしゃ)の双寿丸(伊藤健太郎)らとも再会する。
宋人の薬師に眼病を治してもらうため志願して大宰府に赴任した隆家は「目が見えるようになり、違うものが見えてきた。内裏の狭い世界で位を争っていた日々を実にくだらぬと思うようになった。(平)為賢(ためかた)は武者だが、信じるに足る仲間だ」と心情を吐露する。「ところで太閤様(道長)が出家されたことを知っておるか」と問う隆家に、驚愕するまひろ。「栄華を極めても病には勝てぬ。それが人の宿命だ」などと語る隆家の言葉は、公家の世の終焉が近づいていることを予感しているかのようだ。
大宰府の起源は「筑紫大宰」
ドラマの冒頭で舞台となった大宰府は、遠(とお)の朝廷(みかど)とも呼ばれた内政・外交の西の拠点。福岡県太宰府(だざいふ)市には都府楼と呼ばれる大宰府政庁の官衙跡があり、建物や回廊の礎石が残り、「都督府古址」の石碑が立っている。
大宰府が最初に古記録に登場するのは7世紀。日本書紀・推古17(607)年の条に、「筑紫大宰(つくしのたいさい)」が百済(くだら)僧の肥後国(ひごのくに)葦北(あしきた)漂着を報告したという記述があり、これがのちの大宰府の呼称につながったとされる。
天智2(663)年には、百済救援のため朝鮮半島に出兵した倭王権の水軍が、白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗。唐と新羅の侵攻を恐れた倭王権は、博多湾側からの進撃に備えて水城(みずき)と呼ばれる長大な濠を備えた土塁を構築。水城の背後の四王寺山に大野城(おおのじょう)、現在の佐賀県境にある基山(きざん)に基肄城(きいじょう)などの朝鮮式山城をつくり、烽火(とぶひ=のろし台)という「緊急通信施設」を随所に置いて有事に備えた。その後、大宝元(701)年の大宝令で正式に大宰府が発足したとされている。
船越津から松浦を目指し
さて、ここでまたドラマに戻ろう。
宿所で「そろそろ大宰府を発(た)とうと思う。昔、仲良くした友が亡くなり辞世の歌を残した松浦(まつら)を見に行きたい」と言うまひろ。周明は「松浦に行くなら船がよい。船越津(ふなこしのつ)まで送って行こう」と答える。
「まつら」とは、邪馬台国時代(3世紀)の魏志倭人伝に記された末盧(まつろ)国ゆかりの地。律令時代の松浦県(まつらのあがた)・松浦郡で、現在の佐賀県唐津市や唐津平野の周辺に当たる。当地の鏡山(かがみやま)には、万葉歌に詠われた松浦佐用姫(まつらさよひめ)の悲恋物語も伝わる。
一方、筑前国志摩郡の船越津は現在の糸島半島西端に位置する福岡県糸島市(旧糸島郡志摩町)の船越漁港周辺の海域(船越湾)。岬状に突き出た志摩船越は陸繋砂洲でつながっており、その昔、砂洲上を船を曳いて越したためこの名が付いたという。旧怡土郡と志摩郡は、末盧と同じく魏志倭人伝に登場する伊都国(いとこく)の領域。この周辺には、伊都国の外港として朝鮮半島との交易を担った御床松原(みとこまつばら)遺跡など重要遺跡が点在している。
現在の船越漁港は、焼き牡蠣(かき)のメッカとして人気。冬場の週末ともなれば、ずらり並んだカキ小屋に県内各地の車が殺到する。焼き牡蠣でしか船越を知らなかった福岡県民は、ドラマで刀伊の入寇シーンを見て「船越の歴史」を再認識したはずだ。
博多の浜で刀伊と激突
ドラマでは、壱岐島から命からがら逃げてきた僧侶の常覚(じょうがく)が、大宰府政庁で島の惨状を訴えるシーンがあり、賊徒が異国人・刀伊の集団であることが明らかになる。隆家は「博多(はかた)を攻められてはいかん」と、近隣の国守に出兵を命じる急使を派遣し、自ら軍勢を率いて博多警護所(けごしょ)に出陣。ここで警護所の役人から、賊徒が能古島(のこのしま)に向かったことを知らされる。
やがて能古島から刀伊の船団が博多の浜に上陸し、合戦の火ぶたが切られた。剽悍な賊は小型の弓を使って戦ったが、大宰府の将兵がヒョーと放った鏑矢(かぶらや)の音に恐れをなして退去する場面も…。ここは、小右記などが伝える史実のとおりである。
賊は一旦、能古島に退却。大宰府軍には、財部弘延(たからべのひろのぶ)ら在地の豪族らも参戦し、態勢の立て直しが図られる。ただ、大宰府軍には軍船がなく、海上を追撃できないのが弱み。そこで隆家が軍船の調達を命じ、弘延が「承知しました。主船司に行って船をかき集めましょう」と応じる。
「防人の島」が賊徒の拠点に
刀伊が集結し拠点とした博多湾の能古島は、古来より残島、能許島、能巨島、能解島、乃古島などとして文献に登場する。万葉歌にもたびたび詠まれた景勝地で、島北端の也良岬(やらのみさき)にはかつて防人(さきもり)が配置されていた。
能古島の対岸に位置する志賀島(しかのしま)は、国宝「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」金印が出土したことで有名。志賀島の金印公園近く(棚ヶ浜)と能古島の北端には、也良岬や防人を詠った万葉歌碑が立っている。
沖つ鳥 鴨といふ舟は也良の崎廻みて 漕ぎ来と 聞こえ来ぬかも(志賀島9号歌碑)
(沖の水鳥よ、お前と同じ鴨という名の舟は、也良崎を巡って漕いできたと知らせないものかなあ)
沖つ鳥 鴨云ふ船の帰り来ば 也良の崎守 早く告げこそ(能古島也良岬の歌碑)
(鴨という名の舟が帰ってきたら、也良の防人よ、すぐに知らせてくれ)
山上憶良の作と伝わるこれらの歌は、志賀の白水郎(あま=海人)・荒雄(あらお)の遭難を悼んで詠んだものである。神亀年間(724~729年)、玄界灘沿岸にある宗像(むなかた)郡の宗形部津麻呂(むなかたべのつまろ)は、大宰府の命で対馬に食糧を運ぶことになった。しかし、老齢で役目を果たせず、志賀島の荒雄に代役を頼んだ。荒雄は「わしらは郡は違うが、同じように舟での航海は久しい。志は兄弟より篤く、たとえ殉死するとしても断ったりしようか」と二つ返事で引き受けた。荒雄は肥前国(ひぜんのくに)松浦県(まつらのあがた)美禰良久(みねらく)=現在の長崎県五島福江島の三井楽町ともいう=から出航したが、途中で暴風に遭い、海中に没したという。筑前国守だった山上憶良は、ほかにも荒雄の妻子を憐れんで詠んだ歌を残しており、志賀島北端の勝馬(かつま)に歌碑がある。
能古島は現在、四季折々の花で人気がある「のこのしまアイランドパーク(花畑などの自然公園)」を中心に、行楽地として人気がある。福岡市西区姪浜(めいのはま)の「のこ渡船場」(姪浜旅客待合所)から市営渡船(所要10分)で渡れる手軽な憩いの場。この観光の島が、かつて防衛最前線の防人の島で、刀伊の入寇の「現場」であったことは、今では福岡市民にもあまり知られていない。
一方、ドラマの中で在地豪族の財部弘延が「船を集めましょう」と言った「主船司」は、大宰府の機構に「主船」という官職があり、船のことを取り扱う組織機関のこと。その役所が置かれたのは、現在の福岡市西区周船寺(すせんじ)であると言われている。
殊勲の隆家には行賞無し
さて、ドラマの中の「刀伊の入寇」は舞台を船越津に移し、いよいよ合戦のクライマックス。逃げ惑う村人に混じって、周明とまひろもこの騒動に巻き込まれてしまう。賊徒の攻撃から、まひろをかばった周明は、自分が矢を受けてしまい…。ここで第46回が終了。
第47回(12月8日放送)の「哀しくとも」は、刀伊の騒動の後日談と、まひろの都への帰還を描く。
4月17日の「刀伊襲来」の第1報を受け、未曾有の国難に「兵を送るべきか」と右往左往の評定を続けていた公卿たちは、その後「刀伊退散」の知らせを受けて急速に関心を失って行った。
6月末、公卿たちが招集され、勲功者の行賞について議論した。道長の側近である中納言・藤原行成(渡辺大知)は「刀伊を撃退したのは4月13日。朝廷が刀伊襲来を知ったのは17日で、追討を命じたのは18日。よって13日のことは朝廷に関わりないこと」と行賞無用論を主張。同じく大納言・藤原公任(町田啓太)も「朝廷の命(めい)無き戦で、前例を見ても行賞に価しない」と同調した。陣頭に立って刀伊を撃退した大宰権帥・藤原隆家は道長の政敵の一人で、行成と公任はそこを忖度したようだ。
これに対し、大納言・藤原実資は烈火のごとく怒り「都で胡坐をかいていた我らが、命をかけた彼らの働きを軽んじてはならぬ」と一喝した。史実として、実資は6月29日付の日記(小右記)に「若(も)し賞進すること無くんば、向後の事、士を進むること無かるべきか(賞を与えねば、この先、有事が起こった時に奮戦するものはいなくなる)」と訴えたことを書き残している。
結局、7月13日に除目(じもく=大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式)があり、行賞を得たのは壱岐守と対馬守に任ぜられた大宰府の役人2人だけ。最前線で指揮した隆家には、何の処遇もなかった。
ドラマの中では、道長邸を訪ねた実資が「平将門の乱以降、朝廷は武力を持たなくなりましたが、それから80年が経ち、まさか異国の賊に襲われるとは…。もはや前例にこだわっていては、政(まつりごと)はできませぬ」と慨嘆する場面がある。実資の嘆きは、やがて来る公家社会の凋落と武士の台頭を予言するかのようでもある。
◇
実は、紫式部が亡くなった年は現在も不明で、刀伊の入寇(寛仁3年)より前であったという説もある。お墓の所在地も伝承の範囲内で確定していない。紫式部の晩年は多くの謎に包まれていて、西国へ旅立ったというのはドラマの創作である。とはいえ、このドラマで紹介されたことで「刀伊の入寇」の知名度はグンと上った。この歴史的事件が地元九州で話題になることもほとんど無かっただけに、郷土の歴史を見直す良い機会になったのではないかと思う。
(完)
(歴史ライター・豊田滋通)
【筆者略歴】
豊田滋通(とよた・しげみち)
1953年・福岡市生まれ。1975年に西日本新聞社に入社、主に行政・政治分野を担当。東京支社編集長、論説委員長、監査役などを歴任。2018年から季刊「邪馬台国」などを発行する福岡市の出版社「梓書院」のエグゼクティブアドバイザー/ライター。西日本新聞書評欄で歴史・古代史関係書籍の書評を担当中。著書に『よもやま邪馬台国~邪馬台国からはじめる教養としての古代史入門』(2023年・梓書院刊)など。日本メディア学会会員。
【主な参考文献】
小右記(藤原実資・倉本一宏編・角川文庫)
古代の大宰府(倉住靖彦著・吉川弘文館)
遠の朝廷 大宰府(杉原敏之著・新泉社シリーズ「遺跡を学ぶ」)
武者から武士へ~兵乱が生んだ新社会集団(森公章著・吉川弘文館)
福岡歴史探訪西区編(柳猛直著・海鳥社)
福岡県史第1巻上冊(昭和37年)
太宰府小史(西高辻信貞編著・葦書房)
福岡県地名考~市町村名の由来・語源(梅林孝雄著・海鳥社)
悠久の歴史と万葉のロマン志賀島・西戸崎(東区歴史ガイドボランティア連絡会編・福岡市東区総務部生涯学習推進課)
地形と歴史から探る福岡(石村智著・MdN新書)
角川日本地名大辞典40福岡県(KADOKAWA)