邪馬台国121号サンプル
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7邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した ●饒速日の命、北九州から畿内へ●「『日本書紀』によりますと、神武が東征した先には、『饒ニギ速ハヤ日ヒ』と『長ナガ髄スネ彦ヒコ』に率いられた強力な連合軍が待ち受けていました。彼らは河内・大和の先住豪族でした。」「私は、東遷と降臨は大いに関係があると考えています。それが『日本書紀』や『旧事本紀』の神武東征説話のなかに反映されている。すなわち、神武帝の東征に先立ってニギハヤヒが『天あまの磐いわ船ふね』に乗って国の中央に降臨したことを認めている。このニギハヤヒの東遷は、物部氏の東遷という史実を指しているものと私は受け取っております。物部氏の出身は、現在の福岡県直のお方がた市し、もしくは鞍くら手て郡ぐんあたりのようです。」(『隠された物部王国』[情報出版センター出版局、二〇〇八年刊])私も、大きくみて、森浩一氏や、谷川健一氏の見解に賛同する。この稿は、この饒速日の命勢力の東遷について、データをあげ、ややくわしく議論したものである。この東遷伝承は、邪馬台国本体の東遷を伝えるものである可能性が大きい。のちの、第二次の神武天皇の東遷伝承の陰かげにかくれて、これまで、あまりくわしく議論をされることがなかった。私は、饒速日の命の東遷年代を、西暦二六〇年~二七〇年前後、神武天皇の東遷年代を、二八〇年~二九〇年前後と考えている。その年代論的根拠は、本誌116号、また、拙著『古代年代論が解く邪馬台国の謎』(勉誠出版、二〇一三年刊)などに、ややくわしくのべられている。なお、このような東遷年代のころは、わが国の気候が、大きく変動した寒冷期であった。そのことは、数理考古学者の新井宏氏が、炭素14年代法について考えるディスカッションのなかで、つぎのようにのべているとおりである。「三世紀の後半に、大きな変化があったという見方は、考慮に値します。今日の炭素14の件でも、グラフが何回も出ておりましたけれど、西暦二六〇年から二七〇年のところにキューッと下がって、そこから上がるところがあります。もう定説と言っても良いと思うんですが、炭素14の年代が下がるというのは寒冷期なんですね。ものすごく寒くなっている。いくつかの理由があります。炭素14ができる現象と、もう一つは海の流れの現象、いずれを取っても、そういう解釈というのは、非常にリーズナブルなんです。」「寒冷期って何が起きるかだいたい分かりますよね。世界中で争乱とか移動などの大きな変化が起きています。是非、この事をご参考にされたらよろしいんじゃないかと思います。」(図1参照)(『情報考古学』Vol. 19、№1・

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