邪馬台国121号サンプル
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6はじめに北九州に存在した邪馬台国勢力は、のち東遷して、近畿にはいった。その東遷の主体は、物部氏の祖である饒にぎ速はや日ひの命みことである。このように考えた学者、研究者は、すくなくない。考古学者の森浩一氏は、つぎのようにのべている。「饒にぎ速はや日ひの命みことと長ながすねひこ髄彦は、記紀の『神武東遷』の説話に河内平野や奈良盆地の先住の支配者として登場する。神武軍に対して防戦の末、饒速日が舅しゅうとの長髄彦を殺して帰順するのが『日にほんしょき本書紀』の筋書きだが、金きん鵄しが神武軍に加勢するような戦いの記述は鵜う呑のみにしがたい。饒速日は物もの部のべ氏の祖とされる。『先せん代だい旧く事じ本ほん紀ぎ』の記事やゆかりの古社の存在からみて、饒速日こそ北部九州から東遷を実行した人物であり、その伝承を取り込んで神武東遷の逸話が成立したことがうかがえる。」(『敗者の古代史』[中経出版、二〇一三年刊])また、民俗学者の谷川健一氏は、つぎのようにのべている。高知①出雲勢力の最大影響圏出雲勢力の最大影響圏香川⑫徳島⑲愛媛広島①岡山⑪島根㊾鳥取⑨兵庫㊱滋賀④京都⑦大阪⑳和歌山⑬奈良⑩三重④愛知⑥静岡①山梨長 野石川富山岐阜④福井⑤群馬新潟邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した ●饒にぎ速はや日ひの命みこと、北九州から畿内へ●              安やす本もと美び典てん

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