邪馬台国121号サンプル
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5『出いず雲もの国くに風ふ土ど記き』は、大原郡の条で、「神かむ原はらの郷さと」について記す。ここは、「(大おお国くに主ぬしの命みことが、)御み財たから(神宝)を積んでおいた所」であるという。「神かむ財たからの郷さと」というべきなのを、誤って、「神かむ原はらの郷さと」といっているという。そして、この地の加茂岩倉遺跡から、一九九六年に、三十九個の大量の銅鐸が出土した。加茂岩倉遺跡は、神原の郷、または、そのとなりの屋や代しろの郷に属していたとみられる。神原の郷も、屋代の郷も、『出雲国風土記』に、大国主の命が活動していたと記されている。この銅鐸こそ、「(大国主の命の)御み財たから」とみるべきではないか。古典は、銅鐸のことを、記憶しているのではないか。大国主の命がいたとされる出雲の国。饒にぎ速はや日ひの命みことの子孫が国くにの造みやつこになっている遠とおと江うみの国。出雲の国(島根県)を西の極とし、遠江の国(静岡県)を東の極とし、この二つの極のあいだに、他の銅鐸出土の諸国はならぶ。出雲の国と遠江の国とを両極とする座標のうえに、銅鐸の出土状況を位置づけ、古典を参照することによって、各国の歴史的特徴が浮かびあがる。古代の歴史が浮かびあがる。古代史の闇から、姿をあらわす三つの勢力。すなわち、大国主の命によって、象徴される出雲の勢力。北九州から東遷した饒にぎ速はや日ひの命みことの勢力。南九州から出発したとされる神武天皇によって象徴される勢力。この三つの勢力の角かく逐ちく。銅鐸の背後にある諸氏族の影が浮かびあがる。古代史は、はじめて、「だれが」、「いつ」、「どこで」、「なにをしたか」の、真の歴史の姿をとりもどす。考古学は、大きな成果をもたらした。しかし、考古学だけでは、「だれが」が抜ける。巻頭言 百二十一号 銅鐸世界の状況から構築する 古代の歴史

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