邪馬台国137号 試し読み
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   180【総力特集】邪馬台国論争最前線説を支持する向きは依然根強い。大陸に近く、後漢に朝貢(西暦五七年)して金印(国宝・漢委奴國王印)を受けた奴国王以来、倭国の対外交渉史の幕開けを飾った歴史的事実があるからだろう。また、朝鮮半島(狗邪韓国)から対馬海峡を渡って、対馬国(現在の長崎県対馬市)↓一支国(同壱岐市)↓末盧国(佐賀県唐津市付近)↓伊都国(福岡県糸島市付近)↓奴国(同福岡市・春日市付近)へと、「女王の都する所」に至る主要なクニグニが北部九州でほぼ確定しているのも九州説の強み。ただ、「ご当地・邪馬台国」論争の行方は如何にとなると、畿内説がほぼ「纒向」に収斂しつつあるのに対し、九州説はなお百家争鳴の観があり、分が悪い。ところで、近年の考古学的調査で俄然注目度を高めているのが吉備・出雲地方。一九八〇~九〇年代の調査で、三五八本もの銅剣と銅鐸などが出土した荒神谷遺跡(島根県出雲市)、三九個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(同雲南市)は、いずれも大きな衝撃を与えた。また、吉備地方では、弥生時代後期に造られたとされる“環状列石”を伴う「双方中円」型の楯築墳丘墓が平成元年まで十四年に及ぶ発掘調査で特異な全貌を現した。これらの地が即、邪馬台国に直結するわけではないが、弥生から古墳時代へ、卑弥呼の時代からヤマト王権の時代へと、歴史の転換点で吉備・出雲が大きな影響力を及ぼしたことを物語っているといえそう。「畿内VS九卑弥呼が行ったという「鬼道」の様子を彷彿とさせる吉野ヶ里遺跡の展示(北内郭の主祭殿)「邪馬台国への道」を記す魏志倭人伝の陶板(福岡県糸島市の伊都国歴史博物館敷地内)

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