桜、ななたび 試し読み
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165 第四章 水のない桜川論した。しかし未練は残る。未練があるからこそ、手紙一枚残さず幸江の写真すら持たなかった。写真を見れば、今すぐにでも帰って幸江を抱きしめたいと思うだろう。すべてを無にすることはできないが、胸の奥深くしまいこむことで、そのすべてを特攻に賭ける思いへと昇華させたのである。野里小学校兵舎には、山岡たち特攻隊員と住むアキオという四歳の孤児がいた。野里の空襲で両親を失ったのである。山岡たちは自分の食料を分けてやり、ドラム缶の風呂に一緒に入り、可愛がった。「そうか、お前もみなしごか。俺と一緒だな。だが、負けるなよ。一生懸命生きろ。俺たちが空の上から見守っていてやる」アキオは無邪気に飛行機の絵を描いては遊んだ。山岡の今の心残りは、このアキオのことだった。(俺がいなくなったら、この子はどうなるのだろう)出撃が近づくとアキオが不憫でたまらず、決意を鈍らせるのだ。だが、激しい下痢と腹痛で出撃をあきらめたときの上官の言葉が胸をえぐった。

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