ペッギィちゃんの戦争と平和 青い目の人形物語 試し読み
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14マツエ先生は、女学校卒業後すぐの「代*だいようきょういん用教員」としての勤きんむ務だったかもしれません。あの可愛い青い目の人形の歓迎の日の感かんげき激が、その時の「わたくしに預からせてください」という強い言葉になったのではないでしょうか。しかし、まもなく、マツエ先生は熊くまもと本の人ひとよし吉へお嫁よめにいかれます。そこで、人形のことは、弟の福沢延一郎さんに安あんぜん全に保ほかん管するように頼たのんでいかれたとのことです。それから二年後の昭和二十年、日本は無*むじょうけんこうふく条件降伏することになり、戦せんそう争は終わりました。その後、愛あいされたり憎にくまれたりの青い目の人形ペッギィちゃんは、福沢さんの家にひっそりと隠かくされていたことが知られて、四十年ほどたった昭和六十一年の夏、町の郷きょうどしりょうかん土資料館へ寄きぞう贈されることになりました。ペッギィちゃんが平和の使節として、町の人びとの前に姿を見せることになったニュースを、人ひといちばい一倍喜よろこばれたのは七十歳になったマツエ先生であったと語られていました。しかし、先生の夫おっとは戦せんし死されていたとのことで、戦争とはなんと無むざん残で悲かなしいものなのかと考えさせられます。郷土資料館に移うつって、町の人々の前に、変わらぬほほ笑みを見せたペッギィちゃんは、子どもたちに囲かこまれた写しゃしん真にとられて、新聞の大きな記きじ事になりました。その見みだ出しには、“嘉か穂ほ町の資料館へ、軍ぐんの弾だんあつ圧に耐たえて 青い目の人形は生きていた”と書かれていました。*代用教員=昔むかしの小しょうがっこう学校で、免めんきょ許を持もたずに先せんせい生を勤つとめた教きょういん員のこと。*無条件降伏=勝かった国くにに対たいして何なにも条じょうけん件をつけずに降こうふく伏すること。

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