中村タイル商会創立100周年記念誌_150313
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86降は心機一転して自身よく金を使ひ、また派手に遊芸事を行った。一方、進んで藩主に献金を行い、幕末の変動期に慈善事業や難民救済また多数の寄附行為に専念した。榎實屋が名声を高めたのは慈善に、難民救済に、捨て子取り上げに、一般寄付にまた環境改善に傾倒努力したる二代目清作の業績の結果である。明治元年が五〇歳であり、同一〇年頃、中村分家(中村清次郎)を作って後隠居した。大正二年九六歳で没した。二代目隠居の後本家後継者に不運が重なり、家は傾き、さしもの豪家も大正末期には塞息状態となり、ついで分散された。しかし今日立ち直りの時期に至り、回復の兆し現れている。②大賀並について黒田藩が中津より筑前に来た折、大賀氏という特権商人が同行、博多の見守り役として博多の中心地(現在の呉服町交差点角で旧大丸デパートがあった場所)に居住することを命ぜられた。そして博多住人の最右翼者として遇された。それにつれて、在来の博多住人の中から最高長者の一人を大賀氏と同格として並(なら)んで待遇を亭け得る者を大賀並とされた。大賀氏は世襲だったが、大賀並は時世ととも

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