木槿の国の学校 試し読み
21/24

91第三章 榮山浦南小学校れは下品な言葉だから使わないようにと、釘を刺されました。私は、五歳になるまで朝鮮で暮らし、朝鮮の子どもたちとも仲良く過ごしていたので、幼少期は朝鮮語を巧みに使いこなすことができ、時には母と現地の人との通訳を買って出ることもありました。むしろ、日本語を話すことの方が苦手でした。しかし、内地に戻り、内地の学校に長く通っていたために朝鮮語を忘れて、もはや昔のように上手に話すことができませんでした。しかし、今でも鮮やかに蘇る言葉があります。「ウリ ハッキョ ソンセン(私たちは学校の先生です)」〈参考資料〉*日本による教育支援韓国併合後の日本は、教育の普及に全力を投入しました。明治天皇からの恩賜金一七〇〇万円の利子の三〇%を初等教育に資することとして、こ

元のページ  ../index.html#21

このブックを見る