木槿の国の学校 試し読み
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90木槿の国の学校花をとって来て花弁やめしべなどの観察学習が主になっていました。音楽は、オルガンが壊れて音が出なかったため、歌って指導しなければなりませんでした。田舎の学校でしたから、おそらくオルガンの修理ができる人が近くにいなかったのでしょう。曲に合わせた踊りも一緒に指導していました。図画は身近な静物などの写生が主でした。手工(工作)は、折り紙細工や粘土などです。修身は、教科書といわれるものは当校では配られておらず、指導は自ずと説諭を中心としたものになりました。教科書を使っていたのは、国語と算数だけでした。教師用指導書といったものはありませんでしたから、すべてが教師手づくりの授業となりました。五、六年生になると、地理と歴史が加わりました。このような内容を子どもたちは日本語を通して学んでいくわけですが、お互い同士では朝鮮語を使って話をしていました。朝鮮語を話すことを禁じたりはしていません。私も努めて朝鮮語を覚えようと努力しました。ある時、たまたま覚えたての朝鮮語を使っていると、同僚の朝鮮人の先生から、そ

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