こどもたちへ 積善と陰徳のすすめ
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5貢こうじん人(大学・国学から推薦された人)となった袁了凡でしたが、ある時、南京にある棲せいかじ霞寺に住む高僧雲うん谷こく禅ぜんじ師と会いました。そこで「立りつめい命の説せつ」(自分の運命を自らの意思と行動で切りひらく教え)を聞いて大いに悟り、以後自分の運命を変えるための努力を積みかさねていくのでした。この運命を変えるための方法として、雲谷禅師は「功こうかかく過格」によって人知れずひそかに善を積みかさねること(これを積せきぜん善といいます)を勧めました。了凡の妻も夫に随したがい、善行をかさねました。妻は文字が読めなかったので朱筆の丸印で日々の功過(善い行いと悪い行い)を記録しながら一心に善行に励んだのです。そして袁了凡は、十数年を経てようやく三千回の善行を達成しました。万暦八年(一五八〇)には求子道場を建立して、さらに三千回の善行達成の願がんを懸かけました。すると翌年、夫婦が待ち望んだ男子が生まれたのです。そこで了凡は、天の恵みに感謝して息子に天てんけい啓と名付けました。万暦十二年(一五八四)にはさらに三千回の善行を満願できたのです。すると今度は、さらに一万回の善行の願を懸けています。そして同十四年には進しんし士の試験に合格し、宝ほうちけん坻県の知県(知事)に任命されました。その後は、兵部職方司主事に抜ばってき擢され、豊臣秀吉の朝鮮の役には、明軍に従軍して活躍し、同二十一年に官職を辞じしました。それからも貧しい人々への施ほどこしを続けながら、道教学者の第一人者として著述や教育に携たずさわったのでした。明の世宗の頃から万暦年間まで生きて、七十四歳で没したとされています。

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