㈱カンサイ 60年のあゆみ
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86history of sixty years KANSAIhistory of sixty years KANSAI株式会社カンサイ 60年のあゆみだから、それぞれ自分が安心していける得意先があり、井上さんが大暖(大阪電気暖房)とか、担当をしてた。小野 井上さんがもってたのは、大暖と栗原工業を持ってた。岩宗 私はもう、電設系の浅海電気。小野 浅海は僕もだ。浅海は森さんがいたから、浅海電気は僕も担当よ。岩宗 小野さんも、どっちかといったら電設系だった。小野 ただ、井上さんは専務だから上司の立場よ。営業は、森さんを相手に自分がやっていた。森さんの事務所は、天神の水鏡天満宮の前にあったんだよ。それから、薬院に移った。岩宗 ちょうど僕らが入ったころは、小野さんも井上さんも会社自体が電設系をやっていた。私は、会長からも言われた。チェーン店を増やせと。で、その仕事を広げようと活動したのが数人いたが、要するに出口さんとか柴崎さんとか、井上さんとかね。活躍してくれると思っていたけど、結局みんなばらばらに辞めていき、残ったのはおれと小野さんだけになった。小野 チェーン店というか、電気工事屋がつぶれたら、いつも関西が筆頭債権者なのよ。「あんたのところは今日まで引っ掛かった金があったら、もう3つくらい会社ができてるんじゃないかね」って、よく言われました。岩宗 当時は、工事屋さんと代理店は、昔でいう家族的な付き合いを中心にやっていた。その意識を変えたのは関西電業だったね。要するに、どこでも飛び込んでいった。もうすごかったもの。お客さんは他社を相手にしたいんだが、私たちが帰らないで横にいるので、話ができないわけよ。「岩宗君、あとでまた来ないか?」とか言って帰らせてもいっときしたら、戻ってくるわけ。その時に見直された。私はライバル会社の稲垣電気にいたのでよく分かる。忍田(進) あんた、稲垣電気にいたの。初めて聞いた。岩宗 私は松下電工出身ですから、稲垣電気にも一時、2年半くらいいた。そこもやっぱり、俺が、俺がの内紛があったんですよ。で、辞めて関西に入ったんですけど、ここも一緒だもの。苦労しました。社長 しょうがない、どうやって組織を作れるか、作れないかの話なんだよ。岩宗 僕らが入ったのも、まだ売り上げが20億円くらいの頃ではなかったかな。司会 会長が病気入院されるころが大変な時期だったようですが、その時期に井上さんが入社されて、その後に社長が入社された。このころから組織強化を進めていかれたんではないですか。社長 私は、この会社に入った時、こりゃ駄目だなと思った。このままいったら、これ以上大きくはなれない、また、大きくしたらだめだと思った。戦後、創業者がやり始めた会社なんだから、おれの言うとおりしておけと、そりゃ、ワンマンでした。そうじゃないと、その当時は成り立たない世界だから。それを私がとやかく言うつもりはないけれど、この会社を大きくしようと思うなら、このま会社のカタチを創る?

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