㈱カンサイ 60年のあゆみ
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18history of sixty years KANSAIhistory of sixty years KANSAI株式会社カンサイ 60年のあゆみ創業当初の社員数は福岡の本社に6、7人、大阪と北九州の八幡にも拠点があり、そこにも数名ずついたので、合わせて17、8名くらいであった。ところが、営業に当るのは社長の楢蔵一人で、社員の仕事というのは、社長が取ってきた注文品を大阪に発注し、大阪から届いた品物を荷造りして注文主に送るという、それだけのことだった。ただ、顧客には翌日までに届けなければいけない。毎晩、夜を徹しての仕事であった。冬場の倉庫は寒く、床に座布団を並べ七輪で暖を取りながらの作業が続いた。当時、営業の中心は北九州で、雨の日も風の日も、社長自ら朝6時半から北九州に出向いた。それもジャンパーに地下足袋という出で立ちである。「社長は背広一着、革靴の一足も持っていない」という噂が立ったというが、なりふり構わず仕事に打ち込む楢蔵の姿を彷彿とさせるエピソードである。関西電業が設立された頃は、「もはや戦後ではない」という中野好夫の言葉が流行し、戦後への訣別ムードにも後押しされる形で、国民の意識は豊かな生活へと向き始めていた。白黒テレビ・冷蔵庫・電気洗濯機がいわゆる三種の神器として持て囃され、家庭電化時代が到来する。家庭内に限らず、新しい設備や施設の要求は時代に即した社会的な傾向であり、産業界は当然その要求に応じていく。こうした社会の動きもあったが、楢蔵社長と社員の頑張りのおかげで、関西電業は設立3期目で、早くも純利益を出すに至った。6期目には配当金も出している。11期目では、売上げ高が10億円を超えるという驚異の業績を上げている。3期目、純利益を出したお祝いと社員の慰労を兼ねて、1957年(昭和32)5月には別府へ社員旅行を楽しんだ。1958年(昭和33)12月、楢蔵は大阪に三葉電機工業株式会社を設立し、その代表取締役社長に就任した。三葉電機は配電盤や分電盤などを製造するメーカーで、卸業である関西電業とは業態が異なっているが、お互いが持たない分野を補い合う関係で、以来、現在に至るまで、カンサイグループの一員として重要な位置を占めている。現在の三葉電機工業株式会社3期目で純利益を出す社長の制服はジャンパーと地下足袋

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