㈱カンサイ 60年のあゆみ
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85history of sixty years KANSAIカンサイの創生と発展それは背広なし地下足袋営業から始まったに出たわけ。だからまあ、その間三葉電機の営業マンは八幡に1人だけという事態になっていて、黒崎窯業だけで飯を食っていた時代もあったんですよ。岩宗 新八幡営業所では、当初は、在庫もどっちかというと、八幡製鉄向け在庫が多かった。社長 市販の方はもうひとつだったな。あまり大きな期待もしてなかったし。岩宗 八幡営業所の在庫を見た時、特殊な付属品などが多く、こんなものも売るんだなと思ったものです。その関連か、楢蔵会長が、稲城時代の本社・駐車場にパイプを山積みするのには驚いた。パイプを船便で直接仕入れてくるわけですよ。社長 あれは松下電工から月末だからと頼まれ、パイプを何百万円、何千万円と買っていたんです。岩宗 いつも困ったのは、駐車場を全部パイプが占めて、しかも山積みに。それが、貸し切り船便で入ってくるわけよね。楢蔵会長は言ってたね。「問屋というのはパイプと付属品は、もうトン買いだ。1本幾らじゃないんだ」と。社長 昔は電線などの鉄物は相場ものだったんです。その相場を見て買うわけ。で、売る分を相場で値段を決めてくるから。特に電線なんかはね。今も、そんなに激しくないけど電線はその傾向がありますね。岩宗 うちの会社は、松下電工の配管事業のお抱え会社みたいなもの。そこでは忍田楢蔵会長は神様ですよ、すごかったですもの。事業部の社員は、みんなもう、うちがパイプの仕入れの仕方が全然違うから、問屋っていうのはこれよってよく言われた。小野 だから、当時の事業部の営業担当が福岡に来て、同業他社から新商品が出たら買ってきてくれって。僕が、そこに行って、今度こんなのが出たぞって。それを持って帰って、自分の所で作る。そのくらい、うちが配管だけでやっとった。岩宗 松下電工が、「ネジ無しパイプ」をよそに先駆けて、うちが一番に売ってやって、データまで取ってやったが、あれはすごかったみたい。全部、うちの会社が押し込んだというかね。小野 天神の興銀ビルにあった東光電機に、事業部と一緒に相談に行って、1〜2階の吹き抜けはネジ付き、3階ネジ無し、4階ネジ付き、5階ネジ無し、6階ネジ付き、7、8、9と、ワンフロアーごとにネジ付きとネジ無しのパイプを使って、掛かった経費、人件費、時間のデータを出してもらったんですよ。それを事業部が資料にして全国に流した。それで、一躍ネジ無しが有名になった。岩宗 私らの時代は、まだ工事屋さんは少なかったんですよ。得意先に行っても仕事がない。これはいかんと思って、前にいた南営業所の管轄を回って、開拓しだしたわけよ。やっぱり、チェーン店を増やし、その仕事を広めていかないと、引っ掛かるリスクも高いし、小さいところを開拓できないと。パイプのトン買いとネジ無しパイプ本格的チェーン店展開へ

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