㈱カンサイ 60年のあゆみ
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83history of sixty years KANSAIカンサイの創生と発展それは背広なし地下足袋営業から始まった機製作所に発注して生産を頼んでいた。しかし、工期、納期が来る1ケ月ほど前になって、三葉電機製作所がパンクしたんです。それで、楢蔵さんがお客さんに迷惑を掛けるわけにはいかないということで、引き受けたというわけです。彼らには、出来上がるまでの材料を全部関西電業が買ってやり、給料も払う条件で、とにかく盤を仕上げさせた。それで、楢蔵さんの所に経営を引き受けてくれと頼みに来たわけよ。そして、小林町に一軒家を借りて三葉電機工業株式会社を設立させたんです。関西電業のプールボックス製造くらいから始めたというわけです。司会 稲垣電気商店も吸収したんですね。岩宗 社長が入社してすぐのころでしたよ。社長 吸収合併というよりも、一緒にしたのではないの。先代社長が何年か面倒を見たあと、昭和61年(1986)に合併したのではないのか。とにかく、合併の前に稲垣電気を一度子会社(関係)にしているはずなんだよね。稲垣電気の名前はずっと残っていたもの。岩宗 昭和61年の吸収合併で初めて稲垣電気の社名がなくなった。社長 稲垣電気の面倒を見はじめたのはいつごろなの。岩宗 面倒見だしたのは昭和52(1977)〜53年ですよ。当社が南営業所を作って1年後ぐらい。その前の話をすれば、稲垣電気には久留米営業所があり、その久留米営業所を当社が買って、うちの久留米営業所にしたのです。小野 それは松下電工から何とか面倒見てくれということで、人間から在庫まで、全部ひっくるめて久留米営業所を、ぽんと買いとったんです。それで、看板だけぱっと変えたわけです。司会 それが昭和45年(1970)。久留米営業所開設になっています。岩宗 昭和45年といったら、多分、私が入社してすぐのころだ。稲垣電気はたしかに、おかしくなっていた。小野 稲垣電気の中で内紛があった。それで、松下電工から話がきて、丸ごと買いとったのです。岩宗 そうそう。久留米を一番最初に買い取った。小野 営業所としてはね、それが当社の二番目の営業所というわけです。小野 ところで、私は三葉電機工業・営業課長の名刺ももらっていたんです。営業マンですからお客さんの所で自分で全部見積もりをしましたが、官公庁の仕事をとるには、同時にメーカーですから、大阪の電機局に行って、まず、電気器具の内部スイッチの製造メーカー許可を取らないと、スィッチ盤メーカーになれなかったですよ。忍田(進) 今は、ノーヒューズブレーカーでしょ。昔はカバー付きスイッチとかあって、全部、自社で作った。自分で、銅盤からスイッチを作っていたよ。500アンペアとか、600アンペアとかの大きなやつです。その製造にはお役所の許可がいるわけですよ。稲垣電気商店の吸収合併営業と現場

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