㈱カンサイ 60年のあゆみ
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79history of sixty years KANSAIカンサイの創生と発展それは背広なし地下足袋営業から始まった小野 私が大阪に行ったのは、昭和36年(1961)の2月です。というのが、昭和34(1959)年に、堺に製鉄所を作るという話を会長が聞いてきて、大阪進出の準備を始めるために、昭和35年(1960)にいきなり、「おまえ八幡に行って、八幡製鉄の商品規格を勉強してこい」ということで行かされました。そして、昭和36年(1961)に堺製鉄所の建設が始まり、大阪に行くことになったんです。社長 それが営業としての大阪営業所の始まり?。小野 いや、営業的には私より先に先発隊がいて、地ならし、種まきをしていましたから、営業開始は正確には昭和35年(1960)からです。社長 昭和35年(1960)から大阪で営業開始。小野 そうです。先発隊は会長と一緒に、製鉄関係者の所を回っていたわけです。当時電気工事各社も、大阪に結集していましたね。忍田(進) あの当時、楢蔵さんから聞いたと思うけど、近畿電気工事が一枚かんできて、八幡製鉄の仕事を取りたいと考えていた。それには、八幡製鉄の担当者をどうにかして口説かないかん。それで、楢蔵さんが忍田セイゾウさん(楢蔵さんの甥)を連れていって、ようやく口説くことができたのよ。セイゾウさんという人のおかげや、楢蔵さんはいつもいっていた。小野 それはね、近畿電気工事を使わんと、東西2㎞、南北4㎞の埋立地の、いわゆる電気工事ができんかったんです。関電の子会社ということで。それで、まず、外線を引き込む仮設電源を設置するために、近畿電気工事を使って……。そこには西部電業の古賀さんがずっとつながっていました。司会 大阪営業所が昭和35年(1960)に営業を開始しまして、その間、やっぱり、楢蔵さんは営業をずっと続けておられたんですか。小野 当時の忍田楢蔵社長の話だけど、福岡はほったらかし、月のうち3分の2は大阪にいたんですよ。20日大阪で、10日福岡という形で。関西電業は堺製鉄所に賭けたんですよ。八幡製鉄が使用するフレキシブルチューブの部分に、プリカチューブを提案、八幡製鉄がこれはいいと認めた。当時、大阪の堺製鉄所に、三桂のプリカを入れたのが当社で、それで一躍広まったんよ。それは、フレキの10倍の値段だもん。フレキシブルは1m100円だったのが、こっちは1,000円とかね、むちゃくちゃ値段が違っていた。当時、パテント物とか言って、国内で生産ができなかった。だから、大阪営業所の仕事だけで一番多いときは月5,000万円くらい商売していたね。それはもう昭和36年(1961)当時だけじゃなく、昭和38年、39年、40年の終わりまで。つまり、工場が出来上がっていく間ず〜と続きました。その間福岡の本社は、もうガタガタ。何とかやっていたという状態でしたね。したがって、現在のカンサイの土台は、当時の大阪で築いたと言えますし、忍田会長も自認していました。その喧騒を終えて、私は福岡に昭和40年に帰って来たのですが、その時には自分が以前行っていた得意先は、全部ヨソのものに会社を支えた大阪営業

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