㈱カンサイ 60年のあゆみ
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77history of sixty years KANSAIカンサイの創生と発展それは背広なし地下足袋営業から始まった司会 昭和32年(1957)ですね。小野 その当時聞いた話ですが、昭和28年(1953)に会社がつぶれて、当時の大阪の債権者が、忍田楢蔵会長が九州に全部品物を持っていって、隠しているのではないかと疑われ、会長は債権者から、まあ俗にいう、首に縄をかけられて大阪に連れ戻された。その債権者会議ではごまかしではなく、連鎖倒産の事実が分かったらしい。当時の忍田楢蔵会長は、なぜ九州に来たのかは、九州で一旗揚げ、朝鮮とか大連に行きたかったらしいんですよ。「そのためにおれは九州へ来たんだ」ということをその当時いつも言っていました。それが、倒産で夢破れたわけですが、大阪の債権者会議に出席した時に、債権者のある人が、若いのにこの男は見どころがあるから、この仕事を続けさせてやろうやと言ったという話で、委託在庫方式のやり方を教えてもらって始めたのが関西電業なのだそうです。だから、さっきも言ったように、3月の棚卸しは、大阪からメーカーが棚卸しを見に来ていたんです。ごまかしがないかどうかってね。だから、厳しかったですよ、その当時は。会長は確か28か29才だったですね。いわゆるつぶれた会社から29才で創業するまでにはこんな経緯があったんです。司会 そして会長が31才のころに、小野さんが入社されたわけですね。小野 そうです。そんな事情もあって、当時は、がむしゃら、むちゃくちゃな会社だったという思いしかありません(笑)。司会 営業で入って2年目に先に言った集金事件があったんですね。その時の会長の様子はどうでした。小野 そりゃ慌てたですよ。銀行に飛んで行ったりしてね。資金繰りで当てにしていたお金でもあったわけですから。司会 昭和34年には、初の支店の北九州支店が開設されています。小野 これは、ちょっと違うんですよ。35年当時は八幡出張所と言っていました。支店開設じゃないんです。支店と名前が変わったのは、昭和48年なんですよ。司会 だいぶ後ですね。小野 昭和47年(1972)の暮れに、当時八幡出張所の所長が病気入院して、急遽、会長から、おまえ八幡に行けと言われ、その年末から行ったんですよ。翌48年に取引先の当時の八幡電設(日鉄電設)が八幡製鉄から、出張所とか営業所では登録ができないから名称を支店に改称しろと言われ、それで、48年に初めて北九州支店という名前になった。お客さんからの要望でね。司会 では、初めての出張所が、八幡出張小野数芳氏昭和32年入社八幡出張所を拠点に

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