㈱カンサイ 60年のあゆみ
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76history of sixty years KANSAIhistory of sixty years KANSAI株式会社カンサイ 60年のあゆみうようなサジェスチョンか何かございましたか。社長 当時、先代社長と話していたのは、売上げ数字の話ばかりです。当社にとってひとつのめどである50億円をなかなか超えない。一度だけ昭和58年(1983)にちょうど50億円になったんですが、昭和60年(1985)にまた40億円台に落ちている。以前に、60億円になったら代われと言ったことがあるんです。それと、私が45才になったら代われと言ったこともあります。まあ、本気で言ったわけじゃないんだけど。なぜなら、それ以上齢をとったら、世の中の流れや若い連中の感覚についていけなくなる。50才過ぎてからとか、60才前になって社長なんかする気は一切ないと。結果的に、代わったのが46才です。まあ、会長が70才を自分の引き際と思っていたんですね。それは私には言わなかったけれどね。司会 新社屋が完成した時期に売り上げ60億円を達成されましたが、その後どうでしたか。社長 それからずっと上がってきているんですよね。岩宗 あのころから利益も良くなってきました。司会 ポイントになるものが何かあったんでしょうか。岩宗 自分で思ったのは、先代から社長と私の2人が呼ばれて、営業は社長が、私は内部固めをやれと。当時、うちの会社は大ざる勘定でした。要するに、一生懸命仕事をしているけれど、当時は価格表が一人ひとり違う、仕入先がばらばら。この業界ではこれが当たり前みたいなものでした。だから、営業所によって仕入先が全く違う。それから、価格表も人によって違う。そういう中で商売をしていて、日報も、みんな、えんぴつを転がして書いているみたいなもので、どっちかというと、いい加減なんです。そういう組織を2年ぐらいかけて整備し直しました。それがちょうど本社が移転したころからで、そこから軌道に乗ってきたのではないかと思います。社長 そんな感じだね。岩宗 年間利益を1億円出すのが楽しみでね、いかに仕入をうまくやるかを徹底して究明しました。いつも先代社長が言っていた、仕入が一番根源にあるんだということを実践・実感しました。集中購買など、全社の考え方を一本にしてやろうと。一番助かったのは、そのころ、何かいろいろやる時に、普通だったら社長から注文がつくんですが、それが全く逆で、思ったとおりやれと言う。営業部隊に私の方針のまま指示が出るのが、非常に組織としてやりやすかった。司会 最初のほうに戻らせていただいて、昭和29年(1954)3月の関西電業株式会社設立あたりのことで話しておきたいことがございましたら伺いたいと思います。小野 昭和24年(1949)当時、株式会社関西電業社の九州出張所は、電話帳には紺屋町という住所で載っていましたね。その後春吉に移転しています。私は春吉時代からなんですよ。楢蔵さんの挫折と奮闘

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