㈱カンサイ 60年のあゆみ
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73history of sixty years KANSAIカンサイの創生と発展それは背広なし地下足袋営業から始まったかったけれど、そういう人が多かったね、あの時分の人は。その代わり商売に対する気迫はすごかったですね。井上 そうです、そうです。だから、そんなもんだと思ってはいるが、我々は甘いんでしょうね。それはもう確か。そうでないと、これだけの商売はできなかったはずです。すごい気迫だったです。司会 次いで小野様いかがですか。その時代の思い出などお聞かせください。小野 忍田楢蔵さんは、関西電業の前に一度前身になる株式会社関西電業社九州出張所の所長として就任していたんですが、昭和28年に倒産しているんですよ。そうした騒動の後、昭和29年3月に忍田楢蔵さんが新たに関西電業株式会社を設立しました。その当時、私はまだいません。だけど、入社した当時はもう倒産と設立の話ばかり聞かされていました。社長の忍田楢蔵さんは朝6時半から北九州に、地下足袋を履いて自ら営業に行っていましたよ。司会 北九州ですか。小野 その当時は、営業は忍田楢蔵さんだけ。私ら従業員は楢蔵社長が取ってきた注文を大阪に発注するんです。大阪から送ってきた物を荷造りして、お客宛に毎晩夜なべして送ります。入社した翌日から倉庫で夜なべ。かます(わらむしろを二つ折りにして作った袋)で送ってきた荷物をばらして、そのかますを3枚ぐらい敷いて、その上に座布団を置いて、七輪に火を入れて暖を取りながら、夜なべで注文の品物を納める仕事です。そうしなければ、翌日に間に合わない。僕が入ってきた時代は、まだそういうのが当たり前だったんですよ。それと、社長から聞いていた話ですが、倒産して負債を返せず借金を残したまま創業しましたので、関西電業の創成期は、委託在庫方式というやり方で営業を始めたのだそうです。例えば、今月1,000個仕入れたとします。期末になると自分たちも棚卸ししますが、その棚卸しに大阪のメーカーが来て立ち会い、棚卸しデータをチェックし、1,000個仕入れたものが500個残っていて、500個売れているとしたら、500個分だけ代金を払うというやり方です。このように、この関西電業の創成期は、朝6時半から忍田楢蔵さん自らが北九州まで行って、なりふり構わず頑張っていた。当時のエピソードにこんなのもあります。楢蔵さんは「自慢じゃないけど、俺は今背広が1着もない」と言っていた。朝行くのも地下足袋とジャンパーで、6時半から北九州に営業に行くわけですよ。想像を絶する話です。忍田(進) 楢蔵さんが?小野 ええ。背広ひとつないと、奥さんからも聞いていました。革靴なんてもちろんない。ズックと地下足袋です。井上 ところで、松下電工株式会社の代理店はいつ取ったの。小野 昭和33年当時、北九州での営業が中心で、黒崎窯業との取引を、先代社長の忍田楢蔵さんは門司にあった鍋島商店と組んで進めていたんです。品物の流れとして、黒崎窯業、鍋島商店、関西電業、三葉のラインが松下電工との出会い

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