㈱カンサイ 60年のあゆみ
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25history of sixty years KANSAI前1966~1987Advance period進期1970年(昭和45)、我が国の経済実質成長率はマイナス0.5%、戦後初のマイナス成長であった。消費需要は落ち込み、企業倒産も相次いだ。しかし、関西電業は着々と業績を伸ばし、この年の年初、1月に西営業所を開設、同じ年の6月には久留米営業所開設と、営業の拠点を広げていった。1973年(昭和48)10月、中東戦争により石油危機が発生。我が国は狂乱物価、異常インフレという、かつて経験したことのない混乱した経済状況に直面する。その中にあっても関西電業は着々と企業体質の強化と業績進展をはかって、1974年(昭和49)7月には、資本金を1,590万円に増資し、2ケ月後の9月には、さらに、2,385万円に増資をはかっている。その9月に、26才の忍田勉現社長が入社した。楢蔵が関西電業を設立した時、勉はまだ6才であったから、それより20年の時を経てのことである。楢蔵はもとより、当時を知る社員にとっては、ことのほかの感慨があったであろう。勉が入社するに際して、楢蔵は「社長になれると思うな」といったと伝えられているが、社長職というものの重みがどれほどのものであるかを、身をもって知る人の言葉として、勉はしっかりと受け取ったと思われる。この期の関西電業の売上高は初めて20億円を超えた。石油ショック以後の不況の中、関西電業はその後も、20億円を超える売上げ実績を、毎年着実にあげていくが、この頃から、社員の定着率が低いという一つの悩みを抱えることになった。企業側としては、一人前の社員に育つようにと教育してきた努力とそのためのおろそかにはできない投資が、社員が辞めることで一瞬にして無駄になってしまうのだ。もっとも、関西電業に限らず他の企業でも、同じ悩みを抱えており、戦後の学校教育を受けた者は権利意識は高いが、我慢や忍耐というものを知らない。残業が続いたり、努力不足で営業成績が上らなかったり、上司の強い叱責にあったりすると、簡単に辞めて忍田勉現社長入社、売上高20億円を超える親子喧嘩? も昭和47年関西電業の営業車の前で1978年(昭和53)優良申告法人認定

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