慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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34バルサンが使われていたら助かっていたかも知れないなどの話もあった。因みにサルバルサンは大正初めから日本では使用されている。⑵日中戦争(日支事変・支那事変)日中戦争の発火点は1937年(昭和12)7月7日の蘆溝橋事件で、幾度かの調停は両国の思惑により成らず、対米英戦にまで進んでいった。海軍が寄港する上海などでは軍人相手の妓楼があったが,日支事変勃発後、南京陥落(1937年12月)の折りの混乱のため、暴行防止と性病感染対策のため日本より送られた女性達が慰安婦と呼ばれた最初の人達である。この時のことは第11軍第14兵站病院付きの陸軍軍医少尉・麻生徹男の記録がある。1938年(昭和13)1月2日、上海沙涇小学校にて身体検査。約100名(邦人約20名、朝鮮人約80名:北九州在住者)2月上旬より上海・楊家宅慰安所開設。江湾鎮民営の軍慰安所開設。3月11日の記録あり。官営はその後まもなく閉じられ民営のみとなる。日本人軍医の書いた報告があるのでそれを紹介する。「花柳病の積極的予防法」陸軍軍医少尉・麻生徹男⒄1939年6月30日、九江軍医分団の研究会にて口演。論文提出。1938年1月2日の慰安婦検診に就いて語り、約100名中の20名程の邦人に花柳病罹患者が多く、年齢も高かったことを語り、その結語に、アルコール飲料の制限、即ちこれに代わるものとして、よ

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