慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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33シベリアに出兵し交戦した事件である。日本軍12,000人が出兵しチェコ軍救援のため全兵力をウラジオストックへ送り、増兵して73,000人の日本軍がシベリアの全要地を占領した。1919年1月から極寒のシベリアでパルチザン闘争に苦しめられ、日本以外の諸国は撤退していったが、北樺太(サハリン)領有をねらっていた日本は1922年10月まで滞在し、1925年5月の日ソ国交回復と共に無条件で撤退した。戦費は約10億円。戦死者は約3,000人。凍傷者は全軍の3分の1に達した。疾病統計:1918年(大正7)~1920年(大正9)の3ケ年戦死   戦傷  その他の傷疾  性病以上の報告が陸上自衛隊衛生学校の資料に残っている。花柳病の発生率は平時と戦時とでは16.0%~40.0%と違うという米国の統計があるが、シベリア出兵時の花柳病は統計にあがるのは重症で軽傷者を含めると5~7倍と言っているものもいる。日本軍は常に少数兵力で2~3割多い敵と戦うことが要求されていたので病気で動けない兵の増加は戦力の激減につながり、これを防がねばならなかった。兵隊の性を管理し性病の蔓延を防ぐことの必要を知らされた機会であった(満州事変に於いては戦場での飲料水が問題となり防疫給水部が創設された)。付記:私の祖父が開設した「福岡産婆学校」には大正末から昭和初めにかけてシベリア出兵で梅毒に罹って亡くなった人の妻子が自立して生きてゆくために幾人か学んでいた。サル1,387人2,066人941人2,012人

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