慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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32(明治41)、芸妓の検黴は1913年(大正2)から開始されている。駆梅院規則によると「黴毒に罹り入院する娼妓は食費、薬価、夜具、薪炭油、看護費は賦金を以て給す」とあり、他の疾病では自弁で、黴毒以外の入院は許可していない。週1回検診を行ない、退院の場合は所轄警察署に通知している。駆梅院は娼妓の衛生状態がよくなって来ると黴毒だけでなく他疾患も診療し、健康診療所と名を替え、その後は近くの一般人も利用していた様子が窺われる。②柳町の妓楼が九州帝国大学医学部設立のため1912年(明治45)3月、現清川の新柳町に移転。駆梅院も移転し、福岡駆梅院又は桜町病院と呼ばれた。③その後、福岡診療所又は桜町診療所となり公娼の健康管理と私娼の検黴や治療を行ない1958年(昭和33)3月31日まで続いた。閉鎖後その施設は福岡助産婦会の産科桜町診療所となった。⒃2)日本の軍隊における性病対策日本の娼妓解放令後に英国が強く要求した駆黴対策は、日本から出て行く海軍や外征軍のものでもあった。最初の大規模な外征軍を出す機会がシベリア出兵であった。⑴ シベリア出兵:1918年(大正7)~1925年(大正14)まで。ロシア社会主義革命を押さえるため、日本、米国、仏国の各国が

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