慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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31付記:治療の歴史は、1879年(明治12)淋菌の発見。1905年(明治38)梅毒スピロヘータ発見。ワッセルマンによる血清反応による梅毒の診断法発表。1910年(明治43)エーリッヒ・秦によるサルバルサン発見。日本では大正はじめより使用されたと言う。1928年(昭和3)フレミングによるペニシリンの発見。1945年(昭和20)以降、日本で使用される。梅毒の血清反応、淋菌の顕鏡は検査の中ではかなり早くより使われたが、診断は視・触診が主であった。【梅毒病院・駆梅院について】英国海軍軍医が自国の兵士の性病罹患を防ぐために、日本政府に働きかけ薦めて来たのは次の2つである。⑴病気に罹った娼婦を隔離して治療するために遊郭の近くに梅毒病院を建てること。⑵検黴を行なっていない密淫売の私娼に対する検黴を行なうよう検査の対象をひろげることであった。日本は梅毒対策をヨーロッパ水準に持って行くことにより英国海軍軍医の監督を脱し、同年1881年(明治14)に日本各地に駆梅院を設立した。その多くは交通の要所、港町の遊廓の近くに作られた。その後の経過を福岡を例にとって述べる。①福岡駆梅院(又は松原娼妓健康診療所)の設立は1881年(明治14)で、場所は現博多区千代4丁目2番辺りになる。現石城の柳町の39妓楼と現千代3丁目の水茶屋の娼妓の検黴は明治12年に開始されていた。なお私娼(酌婦)の検黴は1908年

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