慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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29においても病院建設計画。1871年(明治4)、蘭軍医ボードウィンの働きかけで大阪に梅毒病院設立。1872年(明治5)6月、マリア・ルス号事件。10月2日、娼妓解放令 (太政官通達・第290号)公布。英公使館は密淫売による梅毒蔓延を懸念し、外務省へ申し入れを行ない、本国の「伝染病予防法」を紹介し、「日本国に於ける伝染病予防法設立略案」を提案した。この中に検黴を行なう日本人医師を西洋医学によって養成するという具体的方法が詳述されていた。英国側は制度としての検黴の導入を要求した。日本は梅毒病院の建設と日本人医師の養成をせねばならなくなった。1875年(明治8)、英仏両軍撤退完了。1876年(明治9)4月、内務省達乙第45号。内務省より各府県へ「娼妓黴毒検査法ヲ施行セシム」の通達を出す。「公立病院長を梅毒病院長と兼務させる」なども。1878年(明治11)、内務省は3ケ月各の統計表作成を横浜、兵庫、長崎に要求し義務付ける。それを翻訳して外務省へ廻す。1881年(明治14)、英軍医交代時を利用して英海軍軍医による監督を終結させる。各地に梅毒病院を設立する。日本は衛生環境を整え、黴毒対策をヨーロッパの水準に持って行くことで英国軍医の監督を脱し、日本自らの判断で行動出来るようにした。⒂江戸末期に日本が各国と結んだ条約は対植民地の不平等条約であり、1894年(明治27)の治外法権撤廃まで実に40年にわたる努力

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