慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
14/30

28医による検黴が行なわれている。        ⑶イギリス(註:英国も使用)との対応1854年(安政1)8月米国に次いで日英和親条約を結び、1858年(安政5)7月修好条約調印後、翌年オールコックが着任したが、1861年生麦事件、英公使館焼討ち、1863年薩英戦争をへて1865年(慶応1)英公使パークスが着任した。英国は植民地を多く持ち海外に発展していたため、海軍における性病蔓延が問題化していた。そのため1864年(日本の元治1)「伝染病予防法」Contagious Disease Prevention Acts が国会で制定され、66年と69年の改正を行なったが、廃止キャンペーンがジョセフィン・エリザベス・グレイ・バトラーのフェミニズム運動によって起こされ1886年(明治19)「伝染病予防法」は廃止となった。今は廃止となっているが日本に大きな影響を与えたこの法案について、大川由美氏の『近代検黴制度の導入と梅毒病院~英国公使館から見た日本の梅毒~』に詳しい。この伝染病は「伝染する性病」のことで海軍省と陸軍省の管轄のもと軍医が監督に当たり、罹患女性の取り扱い、その適応範囲などを定める。廃止後は「兵営規則」が制度化され強制検査を行なった。伝染病予防法適用下の英国と日本の関係を年次別に追ってみる。1869年(明治2)7月、官制の改革により2官6省を置く。日本政府は英仏両軍に撤兵要求。1870年(明治3)9月、英海軍軍医ニュートン横浜・吉原病院開設。東京府下、長崎(明治7年7月再開)、兵庫(明治5年8月設立)

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る