慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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27定をめざした。1875年、「政府による買春統制の廃止を求める英欧連盟」が結成され、アメリカも参加し、これが「純潔十字軍」運動となった。 各国は公法の中に買春認可をいれて体面を失うことはさけ黙許(黙認)の形を取ったが、実際問題として性病の蔓延を防がねばならず、地方の警察力を使って取締を行なうという形をとっていた。⑿ ⑵ロシアとの対応地理的条件によりロシアは最も早く1738年(元文4)3月よりロシア船を日本に送り通商を求めたり領土を侵したりしていたが、日本が1854年(安政1)日米和親条約を結んだ年に日露和親条約(国境画定)を結び、1858年には調印を行なった。1860年(万延1)長崎にロシア海軍ポサドニク号が入港し、長崎奉行所に提督ビリーリョフが遊興場所提供を申し出た。丸山はロシア軍医の検黴を拒否したため、3名の遊女屋が稲佐で営業を行い、日本側の医師による検黴を行い、これが日本最初の検黴実施となった。この遊女屋は幕末まで続いて「マタロス休息所」と呼ばれていた。その検黴の様子は松本良順の自伝によると、隔日に梅毒検査を行ない、初2日はポンペ氏(政府医官のオランダ人医)が行ない、次より交代して行なった記述がある。そして検黴の開始より密淫売が取り締まられてゆくこととなる。松本良順は将軍の侍医で後の陸軍軍医総監となった人だが、彼が長崎より江戸へ検黴を導入したと言われる。⒀⒁1860年頃函館でも梅毒病院が作られ、横浜においてもフランス軍

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