慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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26た水銀剤が使用された。梅毒が日本に入って来たのは鉄砲伝来よりも少し早く、1512年(永正9)畿内にあらわれ、またたく間に全国に拡がり以後長く続いた。江戸末期の安芸国山県郡大朝村で親・子・孫三代にわたる漢方医家「保生堂」の残した診療録と日記がある。その1815年(文化12)~1819年(文政2)の5年間の診療録「回生録」をもとに疾病統計を行なった結果によると、人口10万対罹病率は梅毒60.1(1950年・130、1983年・1.4)、淋病42.4(1983年・10.3)と高く、性感染症が非常に多く都市部のみならず地方の農村においても蔓延していた。⑾ヨーロッパの医師たちのみた日本は衛生状態が悪く、梅毒罹患率はすさまじいもので、売春婦の数が非常に多いと述べている。⑴ヨーロッパの状況バーン・ブーローらの「買春の社会史」によると、ヨーロッパで最も早く駆黴対策を行なったのはフランスで、1798年パリの売春婦の検診を2人の医師に依託して報告を義務付け、1802年には施療院を作り週2回検診を行なったが運営がうまく行かず続かなかった。1792年ドイツ・ベルリンでは、パリとよく似た統制制度が出来たが、プロシア王は統制そのものには同意したが公法のなかに買春認可の含みを持たせることに反対した。当時売買春の統制を強調したのはヨーロッパの医学界と各国の軍当局であった。1873年、ヨーロッパの医学界はウィーンにおいて警察力による統制を各国が行ない、かつ売買春を統制する国際法制

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