慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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25され日本人医師が性病に対して病院としてきちんと責任を取ることが出来、ヨーロッパの方法で十分に経験を積むまで派遣海軍軍医であるニュートン氏の監督のもとに置かれている」とある。ニュートンは日本の売買春は幼女の人身売買であり、日本人の売買春に対する罪の意識のなさ、ひいては愛情の表現とさえ考えられていることを述べる。⑼ニュートンの後任はセジュイック(Sedgewick)、ヒル(George B. Hill)となり1872年(明治5)8月兵庫・梅毒病院設立、1874年(明治7)7月長崎・梅毒病院再開。次のローレンソンLawrensonは、1881年(明治14)5月27日に帰国した。⑽イギリスにおいては1840年以来「衛生改革」が行なわれ「下水道整備」をはじめとする行政が行なわれ、「接触感染」で広がる梅毒はその予防のため伝染源と考えられる娼婦を対象とした検黴制度が確立されていった。3)日本と他国との係わり日本では江戸時代中期将軍吉宗(1716~1745年在位)以来、オランダの学問・蘭学が取り入れられ医学の分野から次第に語学、地理、科学などに及んだ。そして後にはフランス学、ドイツ学、英学などを含む洋学の同義語に発展し、日本の科学技術の近代化に大きな役割を果たした。これらを通してヨーロッパの梅毒治療法も伝えられていたが、治療は主に漢方薬で、それにヨーロッパから伝わっ

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