慰安婦と医療の係わりについて 試し読み
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24助官兼医官。1859年エジンバラ医学部卒。戊辰戦争に従軍し医療の高い評価を受け、戦後東京の大病院(東大前身)で医療と医学生の教育に当たり、新政府がドイツ医学を採用したため鹿児島で病院設立と医学生の教育に当たった。日本の海軍にイギリス医学の伝統を伝えた。著書は「梅毒新論」三田村一訳(始終ウイリスの講義に通訳として参画協力。自分の経験も加筆)。「日本の買春」。1867年11月26日付報告書。英外務省への報告であり日本の売買春について詳しい。その社会的背景まで洞察した質の高い社会医学的な論文と言われる。日本の田舎では梅毒はまれであるが都会では30歳の男の3分の1がそれに冒されている。本国における「伝染病予防法」改正が海外における売買春や性病調査にまでおよんだことを表し、結論は開港場における梅毒病院の設立と定期検診であった。⑻⑷ジョージ・ブルース・ニュートン George Bruce Newton(1830?~1871)    1867年(慶応3)~1871年(明治4)長崎にて客死。イギリス海軍軍医。1868年、横浜の吉原遊郭の中に梅毒病院(英国人はこれをThe Lock Hospitalと呼んだ)を設立しその初代院長となった。遊女を週一回検診し有病者は強制入院させ治療した。横浜・兵庫・長崎を巡回して監督を行なった。彼により強制系統的性病検診システムが体系付けられた。著書「梅毒新法」(1869年)。英国領事フレッチャー氏の依頼により書いた文「日本(特に横浜)における売買春と性病について」の中に「横浜のロックホスピタルは1868年設立

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