邪馬台国122号サンプル
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7出土数を数え、その全体の出土数に対する比、すなわち出土率を、初期確率として用いるようなものである。この方法で行なっても、私たちが用いた方法で行なっても、最終結果は同じになる。ただ、私たちは、モデルの適切性、厳密性を考え、確率と確率との比(たとえば、奈良県からの出土数と、福岡県からの出土数との比)を、計算の出発点として用いるなどのことをしている。そして、得られた結果は、つぎのようなものであった。邪馬台国が、福岡県にあった確率 九九・九%邪馬台国が、佐賀県にあった確率 〇・一%(千回に一回)邪馬台国が、奈良県にあった確率 〇・〇%この結果は、ふつうの統計学の基準、科学の基準では、邪馬台国は、奈良県にあったとする仮説は、棄却すべきであることを示している。「邪馬台国が奈良県にあった」とする仮説は、十分な安全さですてることができる。(くわしくは、本誌118号参照。)これは、「邪馬台国が福岡県にあったこと」の「エビデンス(証拠)」になりうる。邪馬台国は、奈良県には存在しないのに、卑弥呼の宮殿や、墓が、纒向にあったりすることがありえようか。「邪馬台国=畿内説」は、なにか、夢でもみているのではないか。蜃しん気き楼ろうということばがある。蜃気楼の「蜃」の字は、「ハマグリ」のことである。古代の人々は、大ハマグリが吐き出す息によって、空中に楼台などが現れると考えたのである。司馬遷の『史記』に、「蜃気は、楼台を象かたどる」とある。そのため、蜃気楼のことを、「貝かいやぐら」ともいう。卑弥呼の宮殿、卑弥呼の墓などというのは、蜃気楼ではないのか。それにしても、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の居処について、「宮室・楼ろう観かん(楼台、たかどの)、城じょう柵さく、おごそかに設け、……」と記している。纒向からは、大きな建物あとはでていても、楼観や城柵のあとが出ていないのは、どうしたことか。(九州の吉野ヶ里遺跡では、これらのものも出ている。)たとえ奈良県で発見の卑弥呼の宮殿が蜃気楼であるにしても、そこには、「楼台」の姿がみえない。情報考古学会などをのぞく旧考古学の分野では、判断にあたって客観的な基準をもうけず、その世界での多数意見という漠然とした雰囲気によって、判断をきめることが常態化している。その世界のなかでは、周囲の雰囲気を気にし、おかしいと思っても、あえて発言をしない。そこでは、蜃気楼のような話にも、それを疑うリアリズムは成立しない。このような状況では、旧石器捏造事件のようなことは、くりかえしおきうる。そこでは、どんなに小さな確率でも、可能性があるかぎり、ある仮説を捨てることはできないというような発想に立つ。考古学では、いつ、なにが、どこからでてくるかわからな

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