邪馬台国123号サンプル
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10 ●総力特集● 「新・古代年代推定法=鉛同位体比」の研究土ど記き』にみえる「神かん原ばらの郷さと」ふきんである。「神原の郷」については、『出雲国風土記』に大国主の命が、「神宝を積み置いたところ」と記されている。B 終末期銅鐸(北九州由来銅原料銅鐸)⑴ 近きん畿き式しき銅どう鐸たく⑵ 三さん遠えん式しき銅どう鐸たくBの終末期銅鐸は饒にぎ速はや日ひの命みことの子孫の人々が、のちの時代に国くにの造みやつこになっている地域(とくに静岡県)や、饒速日の命とともに畿内に天下ったとされる人々の活動している地域(滋賀県など)から出土していることが多い。この稿では、Aの初期・最盛期銅鐸と、Bの終末期銅鐸とでは、変化の方向には、共通の一定性がありながら、用いられている銅の原料が異なってきていることを、データをあげ、ややくわしくお話ししてみようと思う。Aの初期・最盛期銅鐸では、出雲系の銅原料が用いられている。Bの終末期銅鐸では、北九州系の銅原料が用いられている。しかし、銅原料は、一定の方向にむけて変化してきており、その変化の方向性においては、連続性がある。なぜ、このようなことがおきたのか。⑵ 外がい縁えん付つき鈕ちゅう式しき(1式・2式)⑶ 扁へん平ぺい鈕ちゅう式しき(1式・2式)⑷ 突とつ線せん鈕ちゅう式しき(近畿式・三遠式)このうち、⑴の菱環鈕式の銅鐸は、もっとも古い時代の銅鐸とみられる。また、⑷の近畿式・三遠式銅鐸は、時代的に、もっとも新しい段階の銅鐸であるとみられる。本誌121号の「邪馬台国は銅鐸王国へ東遷した」でのべたところであるが、これらの銅鐸は、大きくは、つぎの二つのグループにわけることができるようにみえる。A 初期・最盛期銅鐸(出雲系銅鐸)⑴ 菱環式銅鐸⑵ 外縁付鈕式銅鐸⑶ 扁平鈕式銅鐸このうち、⑴⑵は、島根県からの出土がもっとも多い。⑶の扁平鈕式銅鐸は、近畿地方からの出土が多いが、この扁平鈕式銅鐸も、島根県(出雲)方面から、拡散してきたようにみえる。島根県の加茂岩倉遺跡では、扁平鈕式の銅鐸のなかに、外縁付1式の銅鐸が、入れ子式にはいり、同時出土している。「埋納時期」の同時性を示している。また、Aの初期・最盛期銅鐸は、大国主の命の活動の伝承地から出土していることが多い。たとえば、大量の銅鐸が出土した出雲の加か茂も岩いわ倉くら遺い跡せきは、『出いず雲もの国くに風ふ

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