邪馬台国123号サンプル
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7ことが分かるからだ。ところが、日本のバイオ研究者、とくに医学者は統計学にあまりに疎い。」文献学の分野でも、同じような情況がみられる。たとえば、中国の中州古籍出版社というところから、一九八九年に、北京図書館金石組編の『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匯かい編へん』という、全一〇一巻の、厖大な資料が刊行されている。第一巻の「戦国・秦漢」編にはじまり、第一〇〇巻の「中華民国・付偽満洲国」編で終る。第一〇一巻は、「索引」である。石に刻まれたたとえば墓誌などの拓たく本ほん(文字の上に紙をあて、上から墨でたたいて写しとったもの)の、厖大な写真集である。つぎのような問題を考えてみよう。『法ほけきょうぎしょ華経義疏』とよばれる文献がある。『妙みょうほうれんげきょう法蓮華経』の註釈書である。聖徳太子の親筆とされている。いっぽう、聖徳太子の親筆であることを疑う見解もある。聖徳太子の存在そのものを疑う見解すらある。聖徳太子(五七四~六二二)は、中国の王朝でいえば、ほぼ、隋の時代(五八一~六一九)に活躍した人である。中国に遣隋使を派遣している。『法華経義疏』に用いられている字体や書体は、隋の時代のものにあっているのか?それはほぼあっている。字体は、時代によって変化するものがある。たとえば、「寿」という字を第二次大戦以前には、もっぱら「壽」と書いた。この字は、昔は「士さむらいが、フエ一本口に寸す」といっておぼえた。現代とは、字体が異なっている。ただ、現代でも「壽」の字体が用いられることはある。隋の時代には、『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匯編』によれば「壽」のような字体がみられる。「フエ」の「エ」の部分が、「口」または「中」になっている。そして、『法華経義疏』でも、この「」の字体がみられる。隋の時代のつぎの唐の時代も、「」の字がみられる。これを、どう評価すべきか。字体の時代的変遷などは、一時期に、一いっき気に変化するものではないので、統計的に検討する必要がある。本誌本号では、銅にふくまれる鉛の同位体比の問題をとりあげ、特集をくんだ。じつは、鉛の同位体比についても、すでに、厖大といえるほどの測定値の蓄積がみられる。そこから、なにが読みとれるのか、考えてみるべき段階にいたっている。

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