邪馬台国123号サンプル
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5本誌の120・121・122号に、穴沢咊わ光こう氏の「梅原末治論」が連載された。梅原末治は、大正・昭和時代の大考古学者である。122号に掲載された連載の第3回において、穴沢咊光氏はのべる。「現在まで、日本考古学主流のやってきたことは、さながら梅原的研究戦略の踏襲であり、これに無反省であれば、ついには晩年の梅原のように八やわた幡の藪やぶ知らずのようなデータの森の中で迷子になるだけであろう。」「筆者(穴沢氏)の知人のある外国人の考古学者はいう。日本考古学はデータで窒息しつつある。日本人は非常に細かで精密な研究はするが、研究の枠組や問題点の中にある重要性に目を向けようとはしない。日本人は常に同じような問題点に固執し、まるでそれ以外に問題とすべき点がないかのような態度をとりつづける。」梅原末治は、精密な観察と記録の能力をもつ天才であった。ただ、どこまでも、個々の遺物、遺跡などの観察と記録であった。古代の歴史や社会の体系的な研究はほとんど行なわなかった。穴沢氏は、本誌121号でのべる。「厳格経験主義に徹した記述の学者だった梅原にとっては、データ(資料)がすべてであった。彼の学問とはデータをどこからか仕入れてきて発表する以外にはタネもシカケもなく、それ以外に特別な方法も方向もなかったのだ。」例をあげよう。古代の個々の動物の骨を、精密に観察記録するだけでは、「進化論」という、全体を俯ふ瞰かんする物語性と生産性をもった「理論」はでてこない。精密な観察・記録は必要である。しかし、そこから「一歩飛躍する」なにかがなければ「理論」はでてこない。梅原末治には、そのなにかが欠けていた。精密な観察と記録、それは、結局、テクニック、技術である。真の学問や科学にとどいていないのではないか。近年、考古学も、他の分野と同じく発掘記録などのデータの量が激増し、いわゆるビッグ・データの時代にはいっている。穴沢咊光氏は、本誌122号でさらにのべる。巻頭言 百二十三号 時代は動く ●特集を組むにあたって●

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