㈱カンサイ 60年のあゆみ
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89history of sixty years KANSAIカンサイの創生と発展それは背広なし地下足袋営業から始まった岩宗 どちらかというと、この業界は個人的なつながりの多い業界なんですよ。お客さんが、おまえだから買うとか、担当者が気に食わないと仕事を出さないとかそういう世界。したがって、どうしても個人が強くなってしまう。社長によく言われました。「あんたの得意先じゃないぞ、会社の得意先だろうが」とよく怒られたものです。それはよく分かっているんだが、お客さんは私に言うもんだから。でも、あの当時は面白かったですよ。西地区の営業所と南地区の営業所がある意味では張り合いながら、ある意味では協力しながらやっていたからね。そんなこんなで、福岡本社の営業部長に歯向かいよく怒られましたし、ボーナスゼロの仕打ちまで受け、頭に来て、辞表片手に体調不良で入院していた社長(先代)を訪ね、「もう辞めさせてもらいます」って。そしたら、「ちょっと待て」と。もうあの時だけは辞めると思ったね。ついていけなかったもの。いや、金の問題じゃなくて、もうついていけないと思った。もうやれんと思って、2回くらい帰ったもの。でも、それくらい、一生懸命仕事に打ち込んでいた事の裏返しなんです。司会 八幡営業所から北九州支店に名称変更されるころに、井上様は入社されて、営業のほうに出られたそうですが、どうでしたか、その頃の関西電業は。井上 私は電気のことは全然分からんからね。もうパイプ見ただけで、水通すものと思っていた。そういうレベルよ。で、新入社員時代、商品覚えるのに、必ず、帰りに部品を数えて、朝、出てきたら、数が合っているかどうかをチェックする。昔は、よく無くなったものでね。岩宗 当時、そういうの厳しかったからね。井上 なんで数えるのかなと最初は思っていました。岩宗 横流しがよくあったからね、当時は。社長 井上さん(関西電業時代の副社長)はなんで辞めたの。岩宗 一応、定年で辞めました。僕はそう言われた。小野 実は理由がある。稲垣電気の本社を吸収して、井上さんがそこの責任者として行ったが、1年たったら、空いていた穴が倍になった。稲垣電気の帳簿のごまかしを、楢蔵社長が怒ったんです。そこで、井上さんに「おまえ、何しに行っとる」と責任をとらせた。井上さんは名前だけ、仕事はしていないから帳面なんか分かるはずない。それで、61年に、私に責任者で行けと言われたんだけども、それだけはごかんべんをと断った。だから、結局、事件の真相は何も分からないままですよ。井上さんには気の毒な結果でした。岩宗 僕らには、そういう厳しい先輩が沢山いた。小野さんを筆頭にね、よく怒られたけど(笑)。でもね、いい勉強になりましたね。僕はいつもそう思っていた。机ひっくり返して帰ったの、3人くらいいるんじゃない? だけど、あとで思ったら勉強になった。専務とか副社長になったときに、全く同じこと言っているのに気付いたもの。集金とか規律とかの厳しさは、それは間違ってないなと思って。ただ、人を傷つける言い方は、いかんなと思ったけど。個人と組織との間で

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