㈱カンサイ 60年のあゆみ
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80history of sixty years KANSAIhistory of sixty years KANSAI株式会社カンサイ 60年のあゆみなっていた。「ん? 関西電業」と全然話し相手になってくれなかった。もう全部、他の代理店に得意先を取られてしまっていましたね。だから、堺製鉄所の高炉火入れ式があって、設備投資がこれでいったん止めになった時に、忍田会長は、この次は千葉県の木更津だ、小野行くかと。その前に、会長が「おれちょっと行ってくる」と言って千葉に行ったんですよ。そしたら、堺以上に厳しいビジネス環境で、「これじゃあ、行ってもしょうがない。木更津はヤメ」ということになった。昭和40年のことです。また大阪時代に、苦境にあった西部電業に納めた商品、藤倉電線の電線とか照明など、そのもろもろは楢蔵会長が納める前にメーカーに、暗黙の了解やないけどそれをとっていた。そこを僕らも心配して、いいんですかって言ったら、「やれ! 行け!」と言われて、安心してやったという記憶があります。当時はね、月のうち20日は楢蔵さんが大阪に来ていて、ほとんど大阪での営業をしていた。私らは毎日、家に帰るのが11時半から12時でしたね。それで朝は7時からですから、家にはもう寝に帰るだけ。そういうむちゃくちゃな時代を、2年、3年過ごしたかな。だから、もうその当時のことは、そうね、ただただ働いた、働いたということだね。それで、この会社の基盤を作ったと、楢蔵さんは常々言ってましたね。また別の思い出もあります。当時の電工の社長が丹羽さんで、専務が神前さん。現社長の結婚式の仲人が神前さんや。電工の本社の専務の神前さんが、社長の結婚式の仲人をやった。それも、電工の小倉営業所で仲人をするっていう話が出て、小倉の所長に言ったら、そんなんできん。福岡の所長に言っても、そんなんできん。どんどん、どんどん上にいって、結局、神前専務のところまで上がっていった。関西電業の2代目の結婚式やからということで、神前専務が引き受けてくれて、仲人になってくれた。   司会 関西電業の設立から、10年たちまして昭和42年(1967)、43年(1968)ごろはどうでした。小野 地元に根を下ろすと言ったのが、昭和41年(1966)ですよ。41年に今のカンサイグループのチェーン店会の基礎ができたんです。その当時は「博栄会」と言った。博栄会を、昭和41年2月の全日空機が東京湾に落ちた日に、博栄会の発会式をやったんです。そのあと、工事業者の団体だった第一工事組合に行き、名簿をもらい、ダイレクトメールを送って、こういうことをやりたいので集まってもらえないかと呼びかけた。50人くらい来るだろうと考えていたのが、意外にも100人以上も来て、お土産が足りなくなる程でした。井上 それが、チェーン店会のはしり?小野 「博栄会」がそうです。はしりです。名前をつけようということで、みんなで名前を考えたら、お互いに博多で栄えていこうじゃないかということで、「博栄会」という名前が出来上がった。博栄会で始めた組織が、どこかで名前が変わってチェーン店会になっていった。博栄会の発足とチェーン化

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