㈱カンサイ 60年のあゆみ
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74history of sixty years KANSAIhistory of sixty years KANSAI株式会社カンサイ 60年のあゆみ出来上がっていた。ところが、楢蔵さんは、八幡製鉄との取引も、八幡一本で仕事をしていた西部電業と組み、進出を図っていて、製鉄サイドの担当者にも西部電業の古賀社長を通して知遇を得るようになり、それなりに実績を積んできていた。そんな時、楢蔵社長が、昭和35年から堺製鉄所に高炉の建設が始まるという情報を掴んできた。それまで、私達は大阪を拠点に、昭和35年から始まった堺製鉄所の建設の仕事に全力を上げ、関西電業の売り上げの大半を稼ぐほど力を入れてきた。しかし、堺製鉄所自体は当時溶鉱炉がなく、高炉がなければ製鉄所じゃないと言われたりしていて、そのころは全部北九州の小倉か若松から原石が送られてくるなど、加工工場の扱いだったんです。そして、昭和40年に溶鉱炉建設が始まった。当社もそうですが、西部電業の古賀さんはそこでの仕事獲得に賭けたわけです。実はその時点で西部電業は会社自体が業績面から苦境に立たされていた。起死回生をねらっていたんですよ。司会 井上様の入社の後に忍田現社長が入社されますが、その入社までに何かエピソードとかございますか。社長 私は、大学を卒業して松下電工にいました。しかし、そこの所長とけんかして、2年半で辞めたんです。でも、行くところがない。そこで、おやじに「雇ってよ」と頼んだわけです。その時、「来てもいいけど、これだけは言っておくぞ。おまえが社長になれると思ったら大間違いだ」と言われたのを覚えています。司会 なるほど、分かりました。それでは忍田社長が入社されてから以降の思い出に残る面白い話などありましたらお聞かせください。司会 昭和62〜63年辺りで、本社の東比恵移転がありますが、この頃の思い出をお話できますか。社長 それまで本社は稲城で借家住まいだったが、そこが福岡国体道路建設のために、駐車場が半分取られる事になって、それしがらみのなかの本社移転

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